| 講演録・・・「改憲阻止、憲法を生かして『もうひとつの日本』を-きめるのは私たち――」の掲載にあたって・・・ | ||||||
| この講演録は、昨年11月に全労連が主催した「憲法問題講師養成講座」で坂本弁護士が1時間30分にわたって話したものの速記録に、その後の情勢の進展を踏まえて補筆したもので、憲法改悪反対共同センターのホームページに掲載することは本人の了解を得ています。 この講演録をテキストに使って無数の学習会を全国の職場と地域のすみずみからおこない、憲法改悪を許さない国民過半数の世論をつくりましょう。そして、あなたが「もうひとつの日本」をつくる運動の主人公になることを期待しています。(憲法改悪反対共同センター事務局) |
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| <読んでいただく方に> | ||||||
| この一文は、04年11月11日夜に、全労連主催の「憲法問題講師養成講座」で、1時間30分にわたって私が話したものの速記録に、今回、ホームページにアップしていただくことになったのを機会に、補筆をしてまとめたものです。当夜の「ライブ版」であることを重視し、補筆は当日配布のくわしい〈レジュメ〉には書いていましたが時間の関係で省略した部分で、やはり、「言っておくべきだ」と考えたことなど中心にとどめました。とは言え、〈レジュメ〉自体、約3時間位の内容があったこともあり、当初の速記録(字数3万5000字)が6万字〜7万字にふくれあがってしまいました。この点で各位に御迷惑をかけたことをお詫び申し上げます。 せめぎ合いの情勢は、日々、刻々に、新たに語るべき事実を生んでいます。これについては、必要最小限の注記を付しました。但し、自民党が11月17日に発表した「憲法改正大綱草案(たたき台)(以下、自民党「憲法改正大綱」と略称)」とその「白紙撤回」は注記ではまかないきれない重大な事実です。そこで、これについては、末尾に〈追録〉「自民党『憲法改正大綱草案(たたき台)』の正体とその撤回について−本質をどう見るか」をつけ加えました。読者のみなさんには、むしろこの〈追録〉を先にお読みいただいた方が、本文の理解がしやすいと考えています。(なお、本文引用の《レジュメ》は、当日、配布したものです。最近の学習会では《追録》の部分を取りこんだバージョンアップ版を使っています。) |
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ご紹介いただきました坂本です。最初に、今日、私が話す上での問題意識と、なぜ、どういう内容を、どんな視点で話をするのか、まず申し上げます。 お役に立つことを願って 今年9月下旬以降、6回の学習会で話してきましたが、7回目の今日は、私にとって特別の学習会です。今夜の集会の名称は、「全労連・憲法問題講師養成講座」となっています。正直なところ、組合や民主団体の諸活動の第一線に立って活動しているみなさんに、私が「講師とはこう話すのだ」などといえるわけはありません。ただ憲法とともに生き、自由法曹団の一人として45年間活動してきた者の立場・視点から、いままでの6回の学習会の経験にもとづき、みなさんが憲法問題の真実を国民に訴える“語り部”として活動する上で、少しでもお役に立つことを願って、今日の時点での私のとりあえずの問題提起をお手許の約20頁に近い長文の〈レジュメ〉にもとづいて、話させてもらいます。 この〈レジュメ〉は本当は3時間の〈レジュメ〉です。それを1時間半でどう話すのかは、悩みです。悩みつつも、今日は、私の考えている、今日の憲法問題をトータルで、あるいは構造的にまとめたものです。@〈パート1〉で「改憲日程と、せめぎ合いの情勢」を、A〈パート2〉で「憲法とはなにか」と憲法の「光り輝く価値」を、B〈パート3〉で「なんのためのどんな改憲か」、そして「改憲国家の正体」を、C〈パート4〉で「広がる共同に見る勝利の展望」を、D、〈パート5〉で改憲を阻止し、憲法の完全実施の道を切り開くことによって、「もう一つの日本」を実現すること、そして、時間があれば、最後に「結び」として、このたたかいに寄せる私の思いとみなさんへのエールを語りたいと考えています。 学習会のあり方は多様です。それによって、語る時間、さらには以上の1〜5のテーマのどこにどれだけ時間を配分するかは、当然、違ってきます。あるいは学習会を何回度にも分けて話せるときは、各テーマを1回度に集中することができるし、おそらくそうなるでしょう。しかし、もし、とりあえず、1回の学習会で一人の語り部≠ニして、1時間で話すとして、やはり、1〜5のテーマを私は話すつもりです。つまり、改憲問題を「マルゴト」話す必要があると考えているからです。こうした考えに立って、しかしながら、今日は時間の関係で省略できるところは省略し、言うならば「憲法問題」を骨太に、構造的に語ることにしたいと考えています。 三つの視点に立つ 話すにあたって、私は三重の視点≠ノ立っています。それは、第1に危機の重大さを直視するということです。第2に、その反面に広がる矛盾と勝利の条件をしっかり把握するということです。第3に、激動し、渦まく情勢のなかで、たたかって切り開く立場を貫くということです。各パートの順序も各パートごとの論点についての解明も、こうした視点に立ってのものです。 <二重に重大な情勢> レジュメの順序をあえて変えて、改憲をめぐる状況に、つまり、改憲勢力のタイムスケジュールとその見方、そして国民世論との関係を先に話します。レジュメの〈パートV〉の1「改憲策動には多くの弱点がある−『二重の関門』とその守り手・国民の力」のところから、今日は入ります。 かつてない切迫した重大な情勢 重大な情勢というのは、まず第1に、〈レジュメ〉の冒頭(〈はじめに〉)に書いてあるように、改憲策動は、政権政党と内閣が具体的に「政治日程」を公表して取り組んでいるというかつてない切迫した情勢≠ノ私たちは、直面していることです。自民党保岡憲法調査会会長は、昨年12月29日の朝日新聞のインタビューで、07年の秋に同時選挙で国民投票で改憲を行いたいということを具体的な政治日程として公言しました。今年7月の参議院選挙では、競い合うように、公明、民主も改憲に踏み切るのだということを言いました。そして、この選挙で、この3党を改憲勢力とひとくくりにしていうならば、絶対多数の「改憲派議席」が実現し、憲法改悪阻止を訴えた日本共産党や社会党の議席は大きく減りました。議席の上では、自民、公明、民主がまとまれば、改憲発議ができる状況が生まれたのです。経団連、経済同友会、日本商工会議所という財界3団体は、後ろに隠れているのではなくて、公然と先頭に立って、改憲の旗を振っています。財界は自民、公明、民主各党のマニュフェスト(公約)に安保や防衛についてどういう態度をとるかを明らかにすることを求め、それによって、政治資金提供の額をきめるとしました。マスメディアは、『讀賣』や『サンケイ』を先頭にして改憲のキャンペーンをつよめ、『毎日』も『読売』などとは差がありますが、改憲容認の論調の色が強くなってきています。『朝日』は、大筋ではなお、護憲の立場ですが、マスコミ全体としては、主な流れは改憲です。パウエルやアーミテージが外圧を加え、ブッシュが再選しました。ブッシュは、一国大国主義、アメリカ流グローバリゼイションと「秩序」を世界に強制し、この立場から先制攻撃・予防攻撃戦略をさらに強めようとしています。ということは、アメリカの改憲外圧は陰に陽にさらにつよまるだろうということです。戦後の中で、放っておいたら「戦争をする国」にするための改憲が実現するという情勢がここまで進んだのは、戦後史上かつてない重大な事態だといわなければなりません。(注1)(注2)(注3) (注1)自民党と公明党は、05年1月の通常国会に、国民投票法案を上程することで合意した。法案上程、成立となれば、改憲策動は重要な一歩を踏み出すことになる。 (注2)改憲策動をつよめながら、改憲以前に、戦争をする体制の強化をも政府、政権政党らはピッチあげて強行してきている。「武器輸出三原則」の「緩和」「新防衛計画大綱」の決定などがそれである。これらは、9条改憲のための「つゆ払い」、既成事実づくりでもある。 (注3)自民党の「憲法改正大綱」発表とその「撤回」、そして改憲推進本部の立ち上げなどをどうみるか−改憲策動はむしろより本格化している−ことについては、末尾<追録>参照 歴史を分かつ天下の大事=@かつてない重大な情勢という第2の理由は、改憲は、あれこれの悪法反対闘争とは質の違う、重大事だからです。このたたかいは文字どおり、歴史の岐路を決定的に左右する天下の大事≠ナす。戦後長い間、さまざまな悪法反対闘争はやってきましたし、私も自由法曹団も皆さんと一緒に闘ってきました。悪法の制定を許したときでも、例えば労働法制がそうであるように、あれこれの歯止めを作り、たたかいをひきついで、新しい労働立法のために共同する流れを作ろうと言って、その次を展望するということを私たちは言ってきました。だが、改憲をめぐるたたかいは、こうした今までの悪法反対闘争とは質≠ェ違います。もちろん、たとえ、改憲されても私たちは闘うに違いありません。長い時間でみれば、歴史の流れに反する改憲国家路線が長く通るともけっして思いません。しかし、この憲法が本当になくなって、「戦争をする国の憲法」そして「弱肉強食の国」「国民が高度に管理支配される国」になったら、どうなるのでしょうか。改憲が私たちのたたかい、私たちの生き方に対する悪影響は、いままでのあれこれの悪法、様々の反動とはくらべものにならないきわめて重大なものになると思わざるを得ません。切迫した時機と問われている事柄の重さという二重の意味で、改憲をめぐるせめぎ合い≠戦後史上例のない最大の闘争課題です。ですから、そのことをみんなに声を大にして訴えなければと、私はつよく思うのです。 <改憲勢力の構造的困難> 改憲策動がピッチをあげているということを直視しますが、あわてふためいて「腰を浮かす」べきではないと考えています。切迫した二重の危険を直視するということの反面に、改憲勢力にとっても、容易ではない困難も露呈しています。この困難は私たちのたたかいによって、より大きなものになし得るし、それによって、阻止が可能な情勢なのだということをつかみ、大いに語ることが大事だと思うのです。切迫した情勢という側面だけみて、あきらめたり、なやんだり、あるいは「もう考えたくない」という人が少なからずいるのです。こうした人々に、「改憲勢力は万能でも無敵でもない」「彼らは構造的な弱点を持っている」ことを語るのはこの時期重要だからです。 今日、情勢をめぐって、私が先程、午後の「憲法改悪に反対する全国交流集会」(「憲法改悪反対共同センター」主催)で日本共産党山口富男衆議院議員のされたお話にも学んで言いたいのは、「改憲勢力も大きな困難を持っている、彼らには、『二重の関門』があり、それは容易な条件ではない」ということです。 容易ではない改憲案の一本化・発議 「第一の関門」は改憲勢力は憲法96条により、衆参両院でそれぞれ2/3以上の賛成で発議しなければならないということです。発議は少なくとも自民党と民主党−政治的には自、公、民−で改憲案を一本としなければなりません。〈レジュメ〉の<補6>を見てください。単純に数字を挙げておきましたが、わかりやすく言うと、政権与党だけではだめで、民主党を含めて改憲発議をしなければならないのです。 そうだとすると、彼らが改憲発議をするのに改憲条文を一本にまとめられるかどうかが決定的な問題になるわけです。だが、これは午後の学習会で、山口さんが詳しく話されたので、簡潔に言いますが、けっして簡単ではありません。自民党と民主党の改憲案には、なお、少なくない違いがあります。自衛隊の海外への派兵の条件や集団的自衛権を明記するかどうかという点でも、その他の憲法典全文についての自民党のより復古主義的な改憲か、民主党のより新自由主義的な改憲かをめぐって、さまざまに「差」はあるのです。この「差」を「談合」によって解消し、改憲案を一本にまとめることは易しくはありません。しかも、一本にまとめてしまったら、民主党は総選挙で勝利することは不可能です。民主党が、当面の最大目標としている政権交代は「絵に描いた餅」になってしまいます。公明党は「加憲」を唱え、憲法9条をも対象とするとしていますが、創価学会員のなかにもつよい9条改憲反対の声を明白かつ決定的に裏切ることについてはためらいを持っています。こうした、民主、公明両党の態度の様々に揺れ動く動きの根底には、改憲要求はもともと国民の積極的要求ではなく、つぎにひきつづいて話すように、とりわけ9条改憲に反対が6割という国民世論の動向があります。9条改憲反対の6割の国民に背を向けて、改憲発議を一本化する。そして、彼らにとって、万一にも敗北できない国民投票・「第二の関門」突破に打ってでるか−それは改憲勢力にとっても容易なことではありません。(注4) 改憲勢力の最大の障害−9条改憲反対6割の世論 改憲案を一本にまとめるという「第一の関門」突破の上でも、国民投票という「第二の関門」突破の上でも、決定的な要素は世論の動向です。世論調査にはいろいろあります。〈レジュメ〉末尾の〈ノートA〉「世論調査での憲法をめぐる国民意識」でくわしく、数字をあげておきました。これを見ると、憲法を変えた方がいいと、変えてもいいのではないかを合わせると、「改憲賛成」は6割前後の数字が出てきます。しかし、同時に9条を変えていいのかということになると、6割が反対だという数字になります。 例えば今年(04年)5月1日の『朝日』では、「憲法改正の必要がある」が57%、「ない」が35%です。しかし、9条改正については、「変えるほうがよい」が31、「変えないほうがいい」が60%です。 同年4月12日のNHK世論調査の数字は、どうなっているか?ここでは憲法改正の必要については、ある47%、必要なし39%、どちらともいえない30%です。「改正必要」は過半数には達していませんが、なお、「必要なし」を8ポイント上廻っている。しかし、「9条を含めて改正すべき」か、と問うと「すべき」は35.1%、「改正すべき点はあるが、9条改正には反対」が46.3%。「9条を含めて改正反対」は13%、つまり、9条改正反対は『朝日』とほぼ同じく、59.3%に達しているのです。これは非常におもしろいのですが、『東京新聞』の調査では、小泉政権の支持者の中でも「9条を含めて改正すべき」は35.1%、「改正すべき点はあるが、9条改正には反対」が46.3、「9条を含めて改正反対」は13.0、合計59%、つまり、6割ぐらいが9条改憲反対です。「小泉政権の支持者」の中でそうなっている。これは大変意味のある数字であり、改憲勢力にとっては、心配でならないことでしょう。 三つの世論調査で憲法9条改正反対が約6割ということは、国民の平和を求める要求、そして、平和を守るための大切な規範として憲法9条をとらえる国民の思いが、なみなみならぬものがあることを証明しています。のちにふれる憲法9条の会の各地集会での圧倒的な成功は、そのことの運動による現実の証明です。 改憲勢力は、「戦争を知っている世代」「戦争を知っている子供達の世代」が少なくなっていくことにより、反戦・平和、そして9条改憲反対の意見が「風化」して行くことを、計算しているに違いありません。たしかに、そのことは無視できない要素です。しかし、「戦争を知っている世代」である70代も、60代、50代をはじめとする両親らから「戦争を語りつがれた世代」、さらには、世界に例のない原水爆禁止・反核運動への参加や、あるいはベトナム反戦や基地反対闘争への参加によって、形成されてきた反戦・平和の要求は、世代を超えて、けっして「風化」はしていないのです。 イラク戦争でつよまる非戦・平和の声 それだけではありません。改憲勢力にとって、9条改憲賛成の多数派国民世論を手に入れる上で、彼らがおそらく計算していなかった重大な新たな戦略的弱点≠ェ生まれています。それはなにか?みなさんも実感していると思いますが、大義なき侵略戦争、汚れきったイラク戦争と違憲・違法な自衛隊出兵の問題がそれです。 このことはのちにもう一度話しますし、またみなさんがよく御存じのことですのでここでは簡単にふれるにとどめます。「大量破壊兵器はどこにもなかった、もともとなかった」「国連は反対したのに、アメリカとイギリスは無法な先制攻撃を行った」「攻撃は残虐なものであり、多数のイラクの人々を殺傷している」「ファルージャだけで1万人を超える死者を出し、ジュノサイドというべき蛮行が行われている」−これらを動かすことのできない事実として、広く国民が知るところとなりました。「こんなアメリカの戦争に、自衛隊を差し出し、人殺しの共犯者とすることが許されるのか」「そのために憲法9条を消し去り、フリーパスをつくるのか」が日々問われ、これに対して圧倒的多数の国民は「ノー」と言っているのです。 もちろん、9条改憲がこうした戦争のためのものであることが、いますでに国民すべての共通の認識になり、そのことが憲法9条改憲絶対反対の世論にダイレクトに結びついているとはまだ言えないかも知れません。しかし、「国際貢献のための9条改憲」という主張の真実の中身は、「イラク戦争のようなアメリカの無法の片棒を担ぐためのものだ」ということが、イラク戦争の前に比べて、かつてなく多くの国民の知るところになっています。さらに私たちは、若い世代のなかにイラク戦争反対の声がひろがっているのを、これらの若い世代のイラク反戦、非戦・平和の新たな活発な運動によって知ることができます。 いずれにしても、イラク戦争とそれへの自衛隊派兵という目の前の現実は、若い世代を含む広範な国民の憲法9条改憲反対の声をつよめ、広げる大きな要因となっていることは確かです。こうした世論に背を向けて、9条改憲を中心とする改憲案を三党合意でつくること、そして、強引に国民投票に打ってでることには、改憲勢力は容易ではない困難−新たに生じた困難−を持っていると見ていいのです。 (注4)参議院選挙で、民主党が「躍進」したのは、同党が「創憲」をマニュフェストに掲げたからではない。この点については、小林良彰慶大教授の世論調査にもとづくくわしい解明がある(同氏論文「岡田さん、9条改憲は民意ではありません」、『論座』04年9月号)。 <危険は直視する−「安心」しない「二つの理由」> だが何事も単純ではなくせめぎ合い≠ヘ常にきびしいものがあります。すでに述べた自民、公明、民主の三党間の矛盾、さらには各党内での矛盾、そしてその根底にある国民世論との矛盾に、安心していいのかと言えば、私はけっしてそうではないと考えます。私たちが多くの人々に話していくときに、改憲勢力の持つ「彼らの困難」を語るのは、あわてず、腰をすえてたたかうために有益で大事なことです。だがそれは「大丈夫」論で安心を強調するためではありません。私たちはきびしいせめぎ合い∞つばぜり合い≠フたたかいの真実をリアルに語るべきだと私はつよく思うのです。 『朝日』はつい先だって、民主党について「民主転換 具体化の動き減速」と報じました(『朝日』04年11月2日)。民主党に自民党ペースで改憲作業を急ぐことに一定のためらいが生まれていること、党内に集団自衛権明記反対の立場に立つ「リベラルの会」(約50人以上)が生まれているなどの事情があることは、おそらく事実です。どんなに部分的な変化であれ、もし『朝日』の報ずるとおりなら、私は、私たちにとって、一歩ではあれ、有利な変化だととらえます。しかし、私は安心はしないのです。「してはならない」と学習会では話しています。一つには、民主党がすでに、9条改憲反対ではなく、国際貢献のための海外武力行使には、国連が認めるなら、積極的に応ずるという立場に立っているからです。自民党が集団自衛権明記に固執しないといって、海外派兵同意で改憲クリアの立場に立てば、両者の違いは大いに接近するのです。さらに、のちに述べる立憲主義の転換についても、民主党の立場は自民党と接近しているところがあります。両党の矛盾は重視するが、接近し合意の危険は見ておかなければなりません。それ以上に、私が安心しないもう一つの理由は、支配層が彼らの総力をあげる戦略課題として打って出てくるとき、その策動は執拗であり、二枚腰、三枚腰のものだからです。そして、そのときに、「野党」の抵抗が崩れることが多かったことを、実際にこの目で見ているからです。 国家機密法と小選挙区制の経験から そのことを私たちは、何度も経験したことであり、忘れるわけにはいかないのです。いくつかの経験をあげておきます。 私は、国家機密法が国会に上程(1966年6月)になる直前に、日本経済新聞社の労働組合に呼ばれて国家機密法反対を訴える学習会で話したことがあります。そのときに、内閣や自民党の内情にくわしい日本経済新聞のベテラン政治記者たちが何人も来てくれました。「先生は、一生懸命大きな声で言っているけれども、そんなにしゃかりきになることない。あれは、自民党の中のタカ派に対して、ハト派の宮澤首相らがガス抜きのために総務会で認めただけで、国会の期日もあるし、実際には国会上程なんかしませんよ。せっかくだから、学習会には来たけれど、先生、そんなに心配しなくていい」というのがその人たちの話しでした。でも、その翌日に法案は国会に上程されたのです。「自民党の党内矛盾で、悪法提出が不可能になるというのはアテにならない」と私は、この時に痛感しました。 それ以上に、衝撃を受けた経験は、小選挙区制のときです。小選挙区制のときに私たちは決起し、全力を挙げて、参議院で予想外の大差で否決するところまでたたかいました。あの日、あの時、私たちは本当に喜びました。全労連のある幹部は、参議院議員面会所の机の上に上がって、勝利したことを語り、議面を埋めた私たちは自他ともに感動していました。もう常識上も、国会の正常なルール上も成立させることはできない状況になっていたのであり、廃案は必至のはずでした。しかし、私には「理由なき不安」がありました。私は、全労連の幹部に「実際に廃案になるまで安心できない」「勝利宣言はまだできない」と話しました。みんなからは、「心配のしすぎだ」「勝ったとき位、素直に喜んだら」と言われたものです。でも、その日の1994年1月28日夜、土井たか子議長のあっせんということで、密室協議で逆転され、小選挙区制法案は、衆議院の2/3の再決議で成立した……。だから、3党の矛盾、各党内にもある矛盾を重視するけれども、そのために改憲発議が不能になると安心はけっしてしない。すべきではないと考えているのです。 単に1,2回の経験だけから言うのではありません。この間の自公連立政権のもとでのあいつぐ「戦争立法」制定、そして有事法制制定で、自称「平和の党」・公明党の果たした役割、そして、様々に批判はするが、結局は賛成してしまうという民主党の実際の行動からいって、私の心配は「理由なき不安」ではないと思っているのです。 <切り開く視点で情勢をつかむ> 有利、不利の錯綜する条件、そして、揺れ動く情勢を前にして、「あれもある、これもある」「こうも思われる、ああも思える」と語ることは、私の本意ではありません。自らの手で、たたかいによって、局面を切り開く視点で、情勢をつかみとる立場に立ち、その答えをみんなに語りたい。そのことを訴えるのが大事だと私はつよく思っています。 情勢をつかむポイント では、どう訴えるのか?くわしいことは、以下の各パート、とりわけ〈パート□4〉「勝利の展望をどこに見るか」で話しますが、ここでポイントを一点に絞って言えば、私はつぎのように語っているのです。 「私たちの運動は広がっている、彼らの矛盾はけっして小さなものではない。国民は彼らに引っ張り回されるような無力な存在ではない。そこに確信を持つと同時に、どちらの道を進むかを決定する力は、ただ私たちの世論だけにある。世論は「密室談合」でつくられはしない。それは私たちが自力でつくれる勝利のカギである。だから、勝利を目指して、世論を間に合うようにどのようにして起こすか、ここに私たちの知恵と力を集中しなければならない」−これが私の一番訴えたいポイントです。 真実は勝利する しかし、マスコミを持たない私たちが、マスコミの主流の宣伝に抗して、改憲反対の多数派世論をつくるなんてできるのだろうか?学習会に行くと、よくこんな質問があります。「今日も長時間過密労働で疲れた中で、みんな努力して集まったけれども、30人だ。マスコミのキャンペーンに対して私たちは勝てるのだろうか」と。私はそれに対して、「自由法曹団の長い歴史の中で、『真実は勝利する』ということを常に教えられてきた。民衆≠ヘ真実を広げる力を持っている、力をあわせれば改憲阻止、過半数の世論形成は可能だ」と答えています。 中央大学で弁護士になろうと志して勉強したときに、街に出たらラジオで松川事件の仙台高裁の判決が報じられていました。1953年12月22日のことです。一審死刑5人、無期懲役5人を含む20名全員有罪というむちゃくちゃな判決はいくら何でもひっくり返ると私は思っていました。それなのに、4人を死刑、2人を無期懲役で、その他の被告の多くも有罪という判決でした。労働者や共産党は、リストラ・合理化に反対するために、線路を外し、汽車をひっくり返し、機関士を殺す、そんな犯罪団体だ。今で言うならテロリストだということが、一審のみならず、高裁でも認定されたのです。私は当時、第二審の弁論集『無実の論証』を読み、作家広津和郎さんの『松川事件裁判』を読んでいました。あれだけ弁護団が主張・立証し、広津さんが『中央公論』で完膚なきまでに一審判決の誤りを明白にしたのになお有罪判決……。私はそのときに、「自分は何のために弁護士になるのだろうか、なることに意味があるのか」と本気で考え、重い心で何時間も街をさまよっていました。しかし、国民は大義なき不当判決に屈しませんでした。被告、家族、弁護団、そして労働者、国民は、「真実は勝利する」を合言葉にして、「無実の者を殺すな」と訴えつづけたのです。広範な国民が一審、二審のときまでの公正裁判を求める運動の環≠何倍、何十倍にも広げて立ち上がりました。そして、ついに、1959年8月10日、最高裁で逆転勝訴し、ひきつづいて、1961年8月8日、差戻し審の仙台高裁・門田判決で完全に無実を証明したのです。無実を本当に1人1人の国民に訴え、真実を国民の確信にしたときに、最高裁であれ何であれ無法な判決は維持できないということは、国民の確信になりました。無罪判決獲得にとどまらずに、デッチ上げを国家賠償法で訴えて、国に損害賠償をさせました。世界の人権擁護闘争の歴史の中でも、例のない燦然と輝く勝利を日本の労働者や国民はかち取り、「真実は勝利する」ことを国民は自らの手で証明したのです。 勝利をかちとる世論を 今私たちは、国民の6割が9条改憲に反対だということで確信を持ちますが、この6割は揺れ動くにちがいない数字です。すでにのべたように、私たちが時機を失せずに真実をつたえ、運動を起こさなければ、改憲支持のマスメディアの濁流や合意形成した3党の組織活動、宣伝活動によって、過半数を割るものにされる危険を私は直視します。しかし、それ以上に、私はのちに〈パート□4〉でくわしく述べますが、この6割のなかに火のように燃えるつよい反対者を多数つくり、6割を7割、8割に発展させる可能性を見るのです。もう一遍考えてみようじゃありませんか。国民にどれだけの情報が提供されているでしょうか。私がこれから詳しくご報告させてもらいますけれども、国民に対して真実の多くは隠されているのです。その隠されている真実を私たちが1つ1つ、国民1人ひとりと同じ目線で、膝を交えて話して、それを国民の確信にしたときに、なにがおきるか?私たちは改憲絶対阻止に火のように心を燃やす多数者をつくることができる。世代を超え、階層を超え、党派を超えて、過半数を大きく上廻る改憲反対の多数派をつくり、結集することができる。そのことが署名をはじめとする諸運動で目に見える波≠ノなり、風≠ノなったとき、なにが起きるか?そのとき自・公・民3党は野合して改憲案を一本化できるのか、それはきわめて困難になるに違いない。国民のなかにあるレベルまで真実が広がったとき、いつまでマスコミが真実を黙殺したり、歪曲し切れるのか?私は、彼らが真実に背を向けて、なんとでも言える「自由」な存在であり、つづけられるとは考えません。「その時、情勢は動く」のだとつよく思うわけです。 <誰が切り開くのか−語り部≠ヘ私たち> この〈パート□1〉の最後に言いたいのは、「真実は勝利する」としても、では誰が真実を伝えるかということです。松川裁判闘争では、階層を超え、思想信条、党派を超えた国民がそれぞれに語り部≠ノなりました。そのなかで、質量ともに大きな役割を果たしたのは、労働者でした。今日の午後の集会の中で、「語り部になろう、今までの垣根を越えて、偏見を持たないで、心から訴えて討論していこう」という報告が数多くありました。そのとおりだ、そこに勝利のカギがあると、私も思います。 一点つけ加えれば、語り部≠フ最大の勢力は、みなさんだと言うことです。私は1959年に弁護士になり、60年の安保闘争のときに、国会の周辺に数十万のデモが毎日のように繰り返された現場にずっといました。デモの先頭は常に労働組合でした。皆さんにこう言うと、当時を知らない人は「嘘だろう」と言うかもしれませんけれども、一番先頭に立っているのは、多くの場合、鉄鋼労連と電機労連の赤旗の大旗でした。先頭の先頭には数千名の青年部労働者がいました。明らかに、安保闘争の最大の主役は労働者だったのです。 この間、04年2月5日の防衛庁包囲のキャンドルナイトで自由法曹団と新宿の民主勢力の「基礎的組織人員」の10倍以上、1万人を結集する集会とデモを私たちはよびかけて成功させました。終わってから打ち上げ≠ナ一杯飲んだときに、坂本さんの感想を言えと言うから、「安保のときを思い出した」と言いました。そうしたら、「アンポって何だ?」と聞かれた。「私は生まれていなかった」という人が随分いたんです。ですから、今「安保のように闘おう」と言ってもだめだと思っています。けれども、あえて、安保の初期のことを、「誰が語り部≠フ最大の主人公になるか」という観点から、語らせてください。 重かった安保、切り開いた労働者 安保闘争の最初のときは、労働組合の幹部はみんな「重い。安保は入らない」と言っていました。その壁を、みなさんの先輩である労働者は、職場から網の目のように、学習会を組織し、「学んでは行動し、行動しては学ぶ」という活動をくりかえして、あの巨大な運動を作っていったのです。私も駆け出しの弁護士として職場の学習会に出ましたが、あの当時、学習会の語り部≠フ主役は職場の組合活動家だったように思います。昼休みを利用し、弁当食べながらのミニ学習会などがたくさん持たれていました。時間内や時間外の職場学習会も随分あったと記憶します。あれから様々に職場の活動条件に変化はあります。一言で学習会といっても、それを今日にふさわしい対話集会にするためにどうしたらいいか、工夫すべきことも多々あるに違いありません。それについて一人の弁護士にすぎない私に語る力もありません。しかし、言えることは、みなさんこそが語り部≠フ主力であり、みなさんが心をかたむけて仲間に語るべき時は今だということです。 私はサボリ屋で、中学、高校、大学を通じて、ノートをろくすっぽとらなかった。書いても、あまりにも自分の字が汚いから読めないということもあります。でも今日は午後の集会では、後から自分が読めるかあまり自信はありませんが、ノートを全部とっています。サボリ屋の、ノートぎらいの私にも、そうさせるだけのインパクトのある話でした。午後の集会のまとめを語り、そして今夜の司会として冒頭に話された全労連副議長の西川さんとほとんど同じ感想ですが、「動きが始まった」「現場から風が吹き出した」、というのが率直な感想です。安保の初期に比べたら、より広い階層、広いすそ野で学習会が始まっています。始まった波を大波に、吹き出した風を改憲を阻止する力づよいものにするために、みなさんが語り部≠ニして、より活発な活動をされることは改憲阻止、憲法を生かす歴史的なたたかいの勝利の不可欠な環≠セと確信します。そのことを確信し、そのために、いくらかでもお役に立つことを願って、この間、6回の学習会で私がなぜ、なにを、どのように話してきたかをこれから具体的に報告することにします。
レジュメの〈パート1〉は<憲法とはなにか−輝く価値を語ろう>としていますが、今日の話ではこの部分を〈パート□2〉として話します。「改憲反対」を語るときに、改憲の対象とされている現憲法が、私たちにとってどんな値打ちのあるものであるかを語らずして、私たちの運動の持続的な発展は難しい−そう考えるからです。他人に語る以前に、自分自身が心から憲法の価値をつかまなければ、私たちが改憲反対闘争にとりくむ本当の意欲も出て来ないでしょう。「自分で憲法の価値をつかんで人々に語り訴える」というのは、あたり前のことだとみなさんは言われるでしょう。だが、私の経験では意外に悩む問題があるのです。私は二つ点で悩みました。一つは、弁護士で憲法のことは職業上知っているつもりでしたが、その全体像は分かっているようで、「紺屋の白袴」になっていたことです。勉強の仕直しが必要でしたが、あらためて読み直してみて、本当に新鮮でした。もうひとつの悩みは、話す時間との関係です。 憲法の条文を読むのがすごく大事だと新日本婦人の会の語り部≠フみなさんは異口同音に言っておられる。でも、仮に1時間の時間枠で話すときに、憲法の主要条文を読むだけで20分位かかってしまうのではないでしょうか。学習会のやり方は千差万別で、1回で済まさなくてもいいわけですから、1回目は憲法そのものを重要な条文を読みながら学んでみよう、2回目は改悪の中身と、改憲されたらどんな国、どんな社会になるかを勉強しよう、そして3回目に、勝利の条件をどこに見て、どうやってみんなで切り開くかを語り合うという「3回型」なら、たっぷり「憲法とはなにか−日本国憲法の価値」を丁寧に条文を引用して語れるでしょう。しかし、今夜のように、1回の集会でフルコースを1人で話すとなったときに、憲法とはなにか、現憲法の内容と値打ちについて、どれだけ時間をとり、どう話すかは悩ましい問題です。私には、まだ迷いがあります。だが、結論として言えば、時間がないからと言って、憲法を語ることはサボれない、短時間でも話したほうがいいと考えます。 憲法の価値を語る三つのポイント 私は第1回目のある地域での学習会で、このテーマをほとんど話さないで、改悪の内容と、情勢と、展望ばかりを話したことがありました。今日も皆さんにお願いして感想文を集めているのですが、このときの集会で30通集った感想文の中に痛烈なものがありました。「あなたが言う情勢とか展望は自分は知っている、あなたは法律の専門家だから憲法そのものをなぜ語らないのか」というのです。5回目の学習会でもある主婦の方の感想文に、「あなたは憲法を知っているが、私は知らない。だから改憲反対と言われてもピンと来ない」というのがありました。私は大いに反省しました。だから、今日は憲法を語ります。けれども、全文は語れない。憲法理念の一番の根本は何なにか、それにもとづいて、憲法はどういう基本的な原理と構造になっているかということを限られた時間、出来れば20分以内、つまり、全体の時間の5分の1位で骨太に語ることにします。 憲法の価値を三つのポイントで語ることにします。第1は、憲法自体がもっているすぐれた原理と原則についてです。第2は、本来はもっと光り輝いている憲法が、アメリカや日本の支配層によって、不法に傷つけられ、歪められているために、その光≠ェかくされていることです。第3は、憲法制定以来の「押しつけ憲法」「事実上の改憲」の連続攻撃に耐えて、私たち国民が憲法を守り、育て、生命を吹きこみ、今日にいたっていることについてです。この3点をおさえて、憲法の価値をあらためてつかみ直し、お互いの確信とすることが大事だと思うわけです。 <憲法の5つの原則−基本的理念とはなにか> 三つの柱(5原則) 日本の憲法の内容には、ご承知のとおり3つの柱があります。@国民主権、A恒久平和、B基本的人権の尊重です。これを日本国憲法の3原則というのが普通です。さらに、これに議会制民主主義と、地方のことは地方で決め、住民が決めるという地方自治を加えて憲法5原則とも言われます。これが日本の憲法の原則です。以下、今日は5原則ということで話します。 近代憲法の基本−立憲主義 日本憲法は、あとでふれる明治憲法と違って、近代憲法です。近代憲法を貫く原則は立憲主義です。では、立憲主義とはなにか?それは「憲法は国の国民に対する約束で、国は国民に対して、自由と権利を保障し、これを侵害するようなことは絶対にしないと誓約したものである」ということです。憲法はけっして国民を縛る、規制する、義務づけるものではありませんし、そうあってはならない。憲法は、国民の立場から国を縛り、国に誓約させた規範(ルール)なのです。だから憲法99条は、天皇や国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員に憲法擁護の義務を明記している、だが、国民には、憲法擁護義務は課していない−これが立憲主義の大原則です。 憲法の中心規定−憲法13条 では、国が国民に約束した自由と権利の中心になる原理はなにか?それは憲法13条です。憲法13条が重要な条文だということを、私は前から知らなかったわけではありません。けれども、今度の機会にいろんなものを調べ、いろんな人の言っていることを聞いて、改めてその重要性を痛感しました。重要な条項であり、多くの学習会で今まで9条とか25条が(生存権)言われている割りには、13条はあまり言われていないような気もしますので、読みます。「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。 短い時間ですが、この条文の意義を話します。私たちはみな生命を持ち、今日、ここに集まっています。この地球上のすべての人類の生命は、地球上に生命・遺伝子が発生して以来、40億年位たっているといわれています。40億年というはるか昔に、渦巻く壮大な宇宙の仕組みの中で生まれた1つの遺伝子が、回り回って私になっている。みなさんになっている。ということは、すべての人はそれぞれに独自の存在だということです。ある人の表現をかりれば、それぞれが花≠ネのです。それぞれにかけがえのない命を持っている生命体である一人ひとりの人間を「個人として尊重する」。そして、人間としてどう幸せに生きるかということを自分で追求する権利を保障する。自分の幸せには、当然家族の幸せも重なって入ってくるでしょう。それを一人ひとりが追求することを国は「国政の上で、最大の尊重」をする。けっして国が妨害したり、干渉したりはしない。こう憲法は明記したのです。こうした幸福追求の不可分の具体的な内容として、「法の下の平等」「思想の自由」「信教の自由」「集会、結社・表現の自由、通信の秘密」「学問の自由」など、いわゆる自由権を、国はすべての国民に保障したのです。 輝く社会権 日本国憲法は幸福を追求する上で不可欠の人権として、こうした自由権とならんで社会権といわれる基本的人権を保障しています。 思想が自由であるとか、奴隷ではありませんとか、いくら書いても、食うに困ったら人間は人間として生きられない。生きられない存在にしておいて幸福を追求することを保障するとか、自由を保障するといっても、実際には幸福も自由も実現しません。だから、憲法は、人間らしく生きる権利を国が保障するとしました。「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、「国はすべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という憲法25条第1項、第2項がそれです。自由権の保障しかなかった19世紀型の近代憲法から大きく進んだすばらしい権利保障です。しかも、憲法は生存権保障だけでストップはしませんでした。人間らしく生き、幸福を追求するには、人間らしく働く権利が必要だ、そのためには、労使の力関係がどうであれ、人間らしく働くための労働基準(ルール)は国の法律できめて、使用者に守らせるとしたのです。憲法27条第1項、第2項がそれです。 憲法はさらに、もう一歩進めています。「最低の労働条件」を保障するだけでは、まだ人間は十分に幸せになれない。最低の労働条件を引き上げていくために、労働者は団結をする権利、団体行動をする権利、ストライキをする権利、団体交渉で協約を締結して、自分たちの労働条件を引き上げていく権利があるとした。憲法28条がそうした規定です。憲法ここまで全部書き込んだのです。 「日本の憲法はもう古い」と改憲勢力は言っていますけれども、とんでもない。ここまでのことをきっちり書いてあるのは日本の憲法だけです。強いて言うと、イタリー憲法がこれに似ていると思いますが、そういう先進的な憲法、世界に輝く憲法だということをつかみたい。そして、この憲法を変えていいのか、この憲法を今こそ生かし切ろうと確信をもって訴えたいと思うわけです。 憲法9条・恒久平和主義 今回、私は、日本憲法のすぐれた価値を5原則のうち、まず基本的人権を中心に話してきました。しかし、日本憲法の世界の憲法にくらべて、もっとも進んだ規定は言うまでもなく、憲法9条の明記した戦争の放棄、戦力不保持、交戦権否定の恒久平和主義です。 憲法9条は、第2次世界大戦の惨禍を経験して、戦争を原則的には否定する国連憲章の流れを、さらに明確に前進させ、徹底させたものであることは、少なくとも、今日、お集まりのみなさんには、長々と話す必要がないところです。むしろ、今日、語るべきなのは、憲法9条が「理想」にとどまらずして、いま、果たしている役割と、これからの日本、さらには、これからの世界の進路にとってかけがえのない導きの光≠ナあることだと考えます。このことについては後に〈パート□5〉のなかで「今、輝きをます憲法9条」としてくわしくふれることにしますが、一点だけここで言っておきたいことがあります。それは、個人を尊重し、一人ひとりの幸福を追求するということは、平和があってこそだと言うことです。戦争は両立しない。その意味で、憲法13条と憲法9条とは相互に不可分だということです。 反面教師・明治憲法 限られた時間ですが、日本国憲法、ここではとりあえず、幸福追求権とそれに由来する人権規定がどんなにすばらしいものかということは、明治憲法と対比するとよく分かります。今まで1時間内の学習会では、ほとんどふれないのですが、今日は、少し話させてください。 明治憲法−正式名称は「大日本帝国憲法」−も立憲主義だったと言う人がいますが、杉原泰雄先生は、これは擬似立憲主義、つまり、インチキだったのだと言っています(『憲法読本』岩波ジュニア新書)。日本の憲法は国民が主権者だと言っています。ところが、明治憲法は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之(これ)ヲ統治ス」(第1条)となっています。しかも、天皇は現人神(あらひとがみ)、つまり、現世に生きる神・生き神様であるという立場から「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」としていました(明治憲法3条)。議会には本当の意味では立法権はありませんでした。私は、ここへ来るために、何十年かぶりに明治憲法を読んでみました。改めて知ったのですが、明治憲法には私たちが今日、憲法にもとづく議会制民主主義で考えているような立法権はありません。議会は、絶対の 現人神(あらひとがみ)である天皇を助けるために、「こういう法律でいかがですか」というのを作って天皇に差し上げる役目です。それを法律にするかしないかは、すべて天皇が決めることです。「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行ナフ」(第5条)という規定はその意味です。 明治憲法は当然に「戦争をする国」を予定しているのですが、「統帥権」、宣戦を布告し、軍隊をどこに動かすかというすべての権限は、「現人神」である天皇のものでした。「天皇ハ陸海軍ヲ統帥(とうすい)ス」(第11条)となっているのがそれです。現憲法は9条とともに、「奴隷的搾取及び意に反する苦役からの自由」(憲法18条)を明記し、徴兵制は絶対にみとめられない仕組みになっていますが、明治憲法は「兵役の義務」が第20条で定められていました。では、基本的人権はどうなっていたか?「個人の尊重」も「幸福追求」権もなく、法の下の平等、両性の本質的平等もありませんでした。信教の自由、言論、集会、結社の自由、裁判を受ける権利などは一応書いてはいました。しかし、信教の自由は、「安寧(あんねい)秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ」認められるにすぎず、その他の「権利」もすべて「法律に定めた」範囲で認められるとなっていました。これを「法律の留保」といいます。つまり、天皇がきめる法律によって、人権はどのようにでも縮められ、奪われる仕組みだったのです。憲法に反して法律は人権を奪えないというのが現在の憲法です。憲法と法律は質が違う。次元が違う。法律は憲法に絶対的に負けるのです。憲法はこのことによって、一時の国会議席の多数で、国民の人権を奪うことはできないようにしている。別の角度から言えば、憲法は、様々の状況から生まれる多数派の横暴から「人類普遍の原理(憲法前文)」にもとづき、少数者を擁護しているのです。ところが、明治憲法は、法律の定める範囲で人権がある、その範囲でしかみとめないのです。ですから、治安維持法を作って、思想の自由はない、戦争に反対する、男女は平等である、国民が主権者であると言えば、根こそぎ弾圧できた。しかも、この法律は、1928年6月に議会ではより重罰化する「改正」案が審議未了になったのに、緊急勅令で死刑法にされ、人権は文字どおり根こそぎ奪われたのです。女性は参政権がないばかりか、政治的集会に参加することも、政党その他の結社に参加することも犯罪とされていました。日常の取引でも「夫の代理人」としてしか認められず、不動産の取得などは、すべて夫の同意が必要でした。結婚をすることについてさえ、「戸主の同意」が必要だったのです。一言でいって、女性は「一人前の人間」ではないとされていたのです。 司法はありましたけれども、裁判官たちはすべて天皇の官吏として位置づけられ、今の法務省の「管理」のもとにありました。従って、司法の独立も、人権を守る裁判所もなかった。治安維持法違反で起訴された牧師さんたちが法廷で拷問の事実を訴えても、天皇の裁判官は被告人たちを罵倒し、問答無用で有罪にした。法廷で裁判にかけられる前に、小林多喜二さんはじめ、多くの人々は特高警察によって虐殺されましたが、これに対するどんな法的救済もなかったのです。こんな非立憲主義、人権なき天皇制憲法だから、あんな侵略戦争ができたわけです。今回の改憲には、のちに〈パート3〉「なんのための、どんな改憲か」のところで、くわしく述べるように、天皇の元首化など、つよい復古主義とともに、立憲主義の否定があるのです。現憲法の輝きをつかみ直すには、明治憲法の闇≠ニ対比したいと考えて、以上、話した次第です。 私たちは、日本で300万人、アジアで2,000万人以上という悲惨な戦争に反省し、その犠牲の上に非戦平和の憲法9条とともに幸福を追求することや、豊かな人権を保障した先進的な憲法を手に入れました。この憲法に対して「押しつけ憲法だ」とか、「だから自主憲法を制定すべきだ」と改憲勢力は主張しています。しかし、国民は、明治憲法とは質の違う憲法を歓迎したのです。この憲法は、今も、平和の擁護という点でも、幸福を追求し、人間らしく生きることを保障するという点でも、先進的であり、この国に、そして世界に輝いているのです。(注5) (注5)このような輝く憲法を、「押しつけ憲法」であり、だから改憲しなければならないという主張がある。改憲勢力のイデオロギー攻撃の柱のひとつである。しかし、歴史的事実として、現憲法は、天皇制軍国主義の敗戦の後に、どんな国にすべきかについて、世界の諸国の民主的な要求と、二度と戦争をせず、平和で、民主的な国にすることを求める日本国民の要求とが合体してつくられたものである。そして、なによりも、その後の60年間余の国民のたたかいによって、護られ、生命を吹きこまれた「私たちの憲法」なのである。改憲勢力の言う「自主憲法」制定論は、実はアメリカの「外圧」を大きなインパクトの一つとする「押しつけ憲法」制定論にすぎない。押しつけ憲法論は、改憲勢力側の宣伝としては一時の力を失っていると思われるが、なお、学習会では話しておくテーマだと考える。私は、質疑応答の時間をつくって、そこで話すことが多い。いずれにしても、なお、軽視できないテーマであるがここでは省略している。 <傷つけられ、かくされている憲法の価値> 憲法は、その本来の光≠アメリカや日本の支配層によって、様々に傷つけられ、かくされています。そのことを、1時間前後の話のときに、どれだけ話すかは迷いがあります。全くふれないのもひとつの方法です。しかし、今日は、労働者のみなさんに憲法の本当の価値を考えてもらうために、かなりくわしく話します。それも、憲法9条の侵害というよく知られている事実からではなく、主に労働者の憲法上の権利の侵害を例にとって話します。 一般の学習会では、やはり、憲法9条の侵害状況から話すべきだと思うのですが、みなさん労働者の方々には、労働者の権利がいかにふみにじられているのか、憲法を生かしたら労働者にとって、どんな労働のルールが実現するのかをまず話し、憲法の価値をつかみ直して欲しいという思いがあるからです。 労働者の権利侵害−広範な違憲状態 日本国憲法はいつ、どこからゆがめられたかと問えば、おそらく1950年6月に始まった朝鮮戦争のときの警察予備隊創設(1950年7月8日、マッカーサー書簡による創設)という答が多いのではないしょうか。でも、もっと前なのです。1947年、生活をちゃんとし、国の政治を民主化しようとして2・1ゼネストライキが組織されたことかがあります。これに対してマッカーサーは、スト突入前日、絶対に許さない、やったら弾圧するということでつぶした。2・1ストライキ禁止命令です。1946年11月の憲法制定からわずか2ヶ月足らずの47年1月31日のことです。つまり、労働基本権が、まず一番最初に占領軍によって傷つけられた。そして、翌1968年7月のマッカーサー書簡にもとづく同年11月の国公法「改正」、さらに地公法「改正」で国家公務員と地方公務員の争議権が奪われ、政治活動の自由が大幅に制限された。朝鮮戦争の開始直後には、レッドパージによって2万数千人の職場の活動家が職場から追われた。共産党員とは限らない。労働組合活動をまじめにやっている人たちの多く、つまり、今日お集まりのみなさんのような組合活動家の多くが、アクチブ・トラブルメーカーということで、問答無用で職場を追われたのです。これに先行して、同年5月3日、こともあろうに憲法記念日に、日本共産党中央委員24人の公職追放、さらに6月18日、「アカハタ」発行停止、そして7月11日、占領軍の「きも入り」での総評の結成、8月、たたかい続ける当時の全労連へのマッカーサーによる解散命令が強行されたのです。 憲法があるわけですから、レッド・パージされた人たちは裁判所に訴えました。だがすべての裁判所は、占領軍の命令だから裁判所は手をつけられないと、裁判を1つもしませんでした。労働者は裁判で負けたのではないのです。裁判をさせてもらえなかったのです。つまり、思想の自由(憲法19条)、結社の自由(同21条)、団結権(同28条)の侵害であり、さらには最後の救済手段である裁判を受ける権利(同32条)までも奪われたのです。こうしてつくられた大きな傷が、憲法の本来の力をゆがめ、この国の労働運動や民主勢力の力を大きく傷つけたのです。 支配層による労働者に対する憲法に反した攻撃は、1952年の講和条約発効後も、様々に形を変えて行われ、今日にいたっています。労働運動は、アメリカ占領当時の打撃から回復し始め、60年安保、三井三池闘争で大きく高揚します。しかし、両闘争の波が引いていった直後から、財界、大企業は、警備公安警察の支援・協力を得て職場の自由と民主主義を奪い、労働運動全体を右傾化させるために全力をあげました。この攻撃は、多くの場合、憲法にも、労基法にも、労組法にも反する多重的なルール破り≠ナ強行されたのです。労働者は、様々に、ねばりづよくたたかいましたが、全局面的に言えば、こうした攻撃によって、打撃を受け、労働運動は全体として弱められたのです。EUでの強力な労働運動の力による労働のルール確立とくらべて、我国の労働運動がなかなかその水準に行っていない大きな理由の一つはそこにあります。 90年代からの違憲攻撃−NTTリストラ「合理化」を例として アウトローの攻撃は続きます。1990年代に入って、「人間らしく働く最低限度」の基準であるはずの労基法の改悪をはじめとする労働法制全面改悪が強行されました。法制改悪だけではありません。財界・大企業、そして政府は一体となって「弱肉強食」、「利益至上」のリストラ「合理化」を労働者の幸福を追求する権利を奪い、憲法やこれにもとづく法律、そして、判例のルールをふみにじって強行しています。国家的不当労働行為とされる国鉄労働者らに対する、大量差別と解雇攻撃はその最たるものです。例は数多いのですが、多くを語る時間はないし、また今日お集まりのみなさんは、私以上にこの点はよく知っておられますから、1つだけ例をあげるにとどめます。 私が今担当している事件でいうと、トヨタに次ぐ大企業であるNTTは、11万人のリストラ・合理化をやり、50歳を超えた人たちはすべて、NTT100%出資、仕事の内容はいままでNTTのやっていたことがそっくりそのままの外注会社に、賃金3割から2割減で移るか、そうでなかったら北海道から東京へなど、家族生き別れの遠距離配転、しかも、ベテランとしての労働経験を全く無視した、とてもやり切れない仕事への職種転換の見せしめの配転で苦しむかという締め木にかけている。NTTは、キャッシュフロー(現金収入では世界第1位『日経ビジネス』、04年1月5日号)巨大企業であると同時に、今でも政府が約46%の株を持っている、言うならば、政府系企業です。つまり、政府と大企業が一緒になって、憲法の法のもとの平等や人間らしく働く権利を踏みにじって、NTTの労働者を苦しめているのです。50名の労働者が、全国6つの裁判所で裁判をたたかっていますが、犠牲者はこの50名だけではありません。泣く泣くリストラ・合理化されていった数万人の労働者そして両者の家族がその被害者です。 大企業・財界主流と政府が一体となって行っている広範な違憲状態が目の前にある。それにしても、幸福を追求し、人間らしく生きる権利や働く権利が世界の憲法のなかで、もっとも先進的に保障されているこの国の労働状況は、あまりにも異常です。完全失業者300万人前後、差別された不安定雇用労働者約500万人(全労働者の3割)、過労死推計1万人、自殺者3万数千人という数字は、5,300万労働者の多くが、広範な違憲状態に置かれていることを証明するものです。この状況を避け難い、あるいは変えようのない既成事実とは見ない。違憲状況として直視し、このルール破りとたたかう。その見地から、憲法の値打ちをもう一度見直すことが大事だと思うわけです。 <だが憲法は生き光≠放っている> 以上話してきたように、憲法は様々にゆがめられている。しかし、そのことは、決して憲法が「空洞化」していることではありません。私たちは、随分長い間、憲法を護り闘ってきたのです。平和の問題でも、ベトナム反戦や基地闘争をずっとやってきた。労働者の問題でいうならば、女性の平等を求め、思想の自由を求めて闘ってきました。不当労働行為による解雇、リストラ解雇に反対して、あるいは過労死、労災・職業病に反対し闘ってきました。その実績を、きっちり見るべきだと思います。 労働者のたたかいの実績 自由法曹団の出している本に、『憲法判例をつくる』という厚い本があって、40〜50のたたかいとった憲法判例が書いてあります。その多くは労働事件です。しかも、あそこに載っているのは氷山の一角です。はるかにたくさんの憲法を掲げて勝利した事件がある。私たちは自らたたかい抜いて憲法を守ってきたということを、もっとお互いの確信にしようではありませんか。そして、だからこそ、憲法を我が手で守ろうという声をあげようではありませんか。 例えば女性の平等は、憲法15条ではじめから保障され、労基法3条、4条でも、本来、保障されています。けれども、女性が出産退職とか結婚退職という無残な首切りに対して闘ったのは、60年の安保闘争が過ぎてからです。闘って、そういう首切りをはね返した。それが女性の賃金差別反対闘争に発展した。さらに、その成果を引きついで、職階職務職能給の中で、「資格がおかしい、昇格をさせろ」というところまで歩みを進め、私も弁護団の1人ですが、昇格差別を違法とした、たんに損害賠償だけではなく、差別を是正し、「昇格した地位」を認める芝信用金庫の一審、二審の勝訴判決、さらには最高裁の勝利和解までに到達したのです。 憲法には最初からその権利は書いてある。労基法にも最初から書いてある。そのことの意義は本当に大きかった。私たちが闘うに当たって、この憲法、労基法がなかったら勝てたでしょうか?おそらく、勝てなかったでしょう。その意味でいうと、憲法は労働者を守ってくれました。けれども、憲法や法律の条文が「水戸黄門の印籠」のように労働者を守ってくれたのではありません。憲法はこういうものでなければならないということで、実際に、憲法に命を吹き込んでいったのは、憲法を掲げ、事実の上でも、道理の上でも、真実を主張、立証し抜いた原告たちであり、それを支えた多数の労働者だったのです。 「憲法に守られ、憲法を守り、生命を吹きこむ」という成果をあなたたち労働者は、勝ちとっているのです。私たちは、憲法に守られながら憲法を守り、それを育ててきた。そして今日、ここまで来たということに確信を持っていいと思います。重ねて強調します。だからこそ、たたかいによって守り、今日に生き、輝いている私たちの憲法の価値を確信をもって職場の内外に訴えようではありませんかと。 平和を守ってきている9条の光=@では改憲策動の一番のターゲットである憲法9条をめぐるせめぎ合い≠見たときに、9条の価値はどういうことになるのか? 憲法9条が、憲法全条文のなかで、もっとも大規模な侵害を受けている条文であることは明白かつ重大な事実です。警察予備隊は自衛隊となり、今では、世界第2位の軍事予算を持った巨大な武装力になっています。しかも、自衛隊を海外出動させる国連平和協力法、周辺事態法、テロ特措法、イラク特措法、さらには有事立法諸法と違憲の悪法ラッシュが続きました。なによりも、大義なき戦争の戦場であるイラクへの派兵が行われています。でも、だから憲法9条の光=E価値は消えたのでしょうか。本当に憲法9条が消えているなら、何で日米支配層がこんなに9条の改悪のためにしゃかりきになるのでしょうか。米日支配層が手を変え、品を変え、懸命になって憲法9条を変えようとしていることは、今日、憲法9条が彼らの戦争政策に対する歯止め≠ニして、大きな価値を持っていることを証明していることだと私は思うのです。 アメリカがどんなに日本の自衛隊を要求しても、自衛隊を第一線の戦場に出して、イギリス軍と同様に戦車でイラクの人たちを殺させることは絶対にできない。戦争立法をたくさん作りました。でも、一々解説する暇がありませんが、「憲法に反しないんだ」と弁解するために、実に不細工で、彼らから見たら不自由だらけの法律になっているのです。 日本の自衛隊は軍隊だと言う人がいます。たしかに、あの巨大な武装力をみれば、まぎれもなく軍隊です。しかし、本当に他国の人民を殺傷する軍隊というには、多くの欠陥があるのです。たとえば、自衛隊は軍事裁判所も持っていません。流血の戦争をする軍隊は軍事裁判所を必要とします。軍事命令に従わないといって処分するたびに、裁判所で大衆的裁判闘争をやられて、大法廷を使って傍聴席を埋めるなんということをやられたら、しめしがつかない。だから、自民党は改憲内容の一つとして軍事裁判所を作ることを計画しているのです。では、軍事裁判所をつくったら、それだけで、軍隊として戦地でたたかえるかといったらそうはいかない。戦争をすることを価値あることとし、国民の責任とし、国民を物心両面で支配し、動員する法と制度が必要になる。とても、いまのような憲法9条改憲反対6割、イラク出兵反対6割〜7割という国民世論のままでは、アメリカと一緒になって「自由」に戦争をすることはできない。だから、平和憲法と一体のものになっている教育基本法を変え、国民の心をも変えなければならない。しかし、憲法9条を大義に掲げて私たちは、日米支配層のこうした企みを今日まで阻止しつづけてきているのです。そのことにあらためて確信を持っていいし、持つべきだと思うわけです。 ダグラス・ラミスさんの話し ダグラス・ラミスさんはかつて、要旨、つぎのように語っていたと自由法曹団の友人から聞いたことがあります。「あなた方はもっと誇りと自信を持っていいのではないですか。発達した大きな資本主義の国で、戦後外国の人たちを殺さなかった国はありません、アメリカの多くの青年は、いろんな反戦運動の伝統はあるけれども、大統領が『戦場に行け』と言えば、『行かなければならない』『そこで相手を殺さなければならない』と思っています、あなた方の国の青年はそうじゃないでしょう、あなた方は、憲法9条の改悪も、他国の人々を殺すこともやらせなかった。アメリカも必死になってやらせようとしたし、日本の財界もそうだった。でも、それを許さないで、半世紀を超えて守り抜いてきたことに対して、なぜあなた方はもっと自分たちのしてきたことを信じないのですか、なぜもっと自信を持たないのですか」と。 私もそうだと思います。今日、大義なき戦争が行われ、アメリカによって、それがさらに拡大される危険がつよまっているとき、そして、我国の支配層がこれに協力加担して、さらに、無法の河を渡ろうとしてるとき、憲法9条が果たしている「歯止め」としての価値を、私たちの確信とするとともに、さらに多くの国民に大いに語っていこうではありませんか。 <未来を照らす光≠ニしての憲法の価値> 以上話してきたように、憲法は今輝いているのです。私はそのこととともに、今日の憲法の価値として、「憲法は未来を照らす光≠ナあり、そのグランドデザインだ」ということを訴えるべきだと考え、学習会でそうしています。 そのことはのちに〈パート4〉でくわしく述べますが、「日本国憲法に書いてあるすべての人権、すべて国民を主人公とする、それが実現する社会を作ったら、未来は輝かしいものになる。憲法9条をまずこの国で厳守する。そして、世界の規範として広げていったら、未来は輝かしいものになる」のではないでしょうか。 100年先の世の中はわかりません。50年先もわかりません。私は絶対そんなに生きていない。皆さんだって生きていないでしょう。でも、この10年、20年、30年の日本と世界を考えてみてください。私が冒頭に言いました世界に輝く日本の憲法を生かし切ったら、この国は変わる。私たちの人生は変わる。憲法13条が保障したように個人として尊重され、人間として幸せになりたいという誰もが持っている要求を実現できる国と社会が実現すると私は思います。そして、歴史のこの局面で、日本がそうした国になるということは、世界のこれからにとって、大きな意義を持つに違いありません。そのことを語りあい、憲法の価値、輝きを私たちの共通の確信にして、だからこそ、改憲を阻止する、だからこそこの憲法を生かすことに心を一致させて、行動する−そこに、多数派を形成するもう一つの重要な環≠ェあるのだと確信します。
すでに話してきたような私たちを守り、私たちが護り、育ててきたすばらしい憲法を、改憲勢力はなんのためにどう変えようというのでしょうか?そして、もし彼らの企みを許したら、この国、この社会はどのようになってしまうのでしょうか?これは学習会で、誰もが分かる事実にもとづいて、必ず話さなければならないことです。この憲法を完全に実施するのではなく、そして、その「一部修正」でもなく、完全に反古にし、逆立ちさせようというのが、目の前にある改憲策動です。一般的に言えば、学習会で憲法9条から入り、「戦争をする国」の正体を語るのが普通でしょう。たとえば、1時間以内の話なら、時間の半分、少なくとも3分の1は、そのために使った方がいいように思います。さらには、9条改憲阻止の一点で、集会を組織したときに、その日のただ一人の主報告者として話す場合には、「戦争をする国」にするための憲法9条改憲ということに、さらに、多くの時間を集中すべきかも知れません。そのことを私は重視します。しかし、迷いを持ちつつも、私は、9条改憲、そして、「戦争をする国」にすることが、この国を根底から反国民的なものに変える危険がつよいことを話しています。しかも、結果としてそうなるというよりは、支配層は自らそう狙っていると話しています。なぜなら、改憲勢力が、9条だけではなく、憲法全文の「改正」を打ち出してるのは厳然たる事実だからです。彼らは、「国民を幸せにする国」にするための改正だと宣伝しています。こうした事態を前にして、私たちは「憲法マルゴト改憲」の構造と狙い、彼らの言う「改憲国家」の正体をきびしく批判することを避けるわけにはいかないと私は思うのです。今日はそうした問題意識で〈パート3〉として「なんのための改憲か−『改憲国家』の正体」をテーマにして話すことにします。この〈パート〉で私はあえて今日は、立憲主義の放棄・憲法13条の否定というところから入り、ついで、自民党ら改憲勢力がどんな「改憲国家」をつくろうしているかを、順を追って解明することにします。 <立憲主義と憲法第13条の否定> 先ほど言いましたように、憲法は国はこういうことはしない、国は国民にこういう約束を守る、国としてはそれを守る義務があるという国民に対する誓約です。国は、憲法に従って国民に対する約束を果たさなければならない。この憲法に従って国民に約束したことに反するような間違ったことをしてはいけないというのが、憲法の基本です。 「180度ひっくり返す」 それに対して、今度の改憲はそれをどういうふうに変えようとしているのか?今度の改憲はまったく逆です。私のレジュメ〈パートU〉の1に書きましたように、「立憲主義の放棄、国民に強制する憲法原理に転換−支配層の要求実現のための「新しい国づくり」−これが改憲憲法の逆立ちした基本原理です。国民は国に対して責任を負う。例えば「公共のために国民は何々」をしなければならないというのです。憲法は国のあり方、「国柄」を決めるものである。改憲ではそのことが大事なのだと強調する、そして、改憲憲法が明記する「国柄」については、国民は尊重して守らなければいけない、というのです。 では彼らの言う「国柄」とはなにか?「国柄」の中には愛国心が入ります。愛国心と連れ立って、後から詳しく述べます「国防の義務」があります。これらは、すぐ後に話すように「戦争をする国」にするために憲法9条の改憲と不可分に結びついた改憲です。でも、それだけではありません。憲法13条の個人の尊重というのは、「個人主義」であり、利己主義になってしまっている、だから「公共」を大事にし、「公共」のための義務を果たさなければならないというのです。国家を最大の、つまり最重要な「公共」とする。家庭についても、両性の本質的な平等に基づいて家庭を作るという現憲法24条を、家庭というのは「最小限の公共」だから、これを守る義務が国民にあるとする。社会保障について国民が負担する義務を憲法に書く。こうした一つひとつの改憲内容はそれぞれにつながっています。つまり、改憲憲法の基本原理は、個人の尊重、幸福の追求を「国政の上で最大の尊重」とするという、憲法上の国の義務を転換して「公共」に対する責任を課す憲法へと原理転換させるものなのです。この点について、『朝日』は、自民党の「論点整理」は「国家の恣意から個人を守るという、近代憲法が課せられてきた役割を180度ひっくり返そうという発想だ」(04年11月2日)としています。が、そのとおりなのです。 では、改憲でどんな「国柄」にしようというのでしょうか。改憲勢力はいろいろに言っています。彼らの言う「国柄」をどういう切り口で解明するかは、様々にあるでしょうが、私は、大きく言って、「四つの顔」をもった「国柄」の国にしようということだと考えて、そう話しています。 <改憲国家の「国柄@」−「戦争をする国」に> それでは、自民党は具体的にどんな「国柄」(どんなあり方の国)を作ろうとしているのでしょうか?改憲の最大の目標は憲法9条の改悪です。 明快な憲法9条 憲法9条は、非常に明快な条文です。国連憲章その他の侵略戦争はしないという基準は、もちろん日本の憲法にも引き継がれているのですが、日本の憲法9条は、日本の国の過去の歴史をしっかりとふまえて、第1項で、まず、「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を「永久に放棄」しました。それだけではなく、第2項で、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と明記したのです。第2次世界大戦の惨禍を経験した世界の各国、各国人民は、二度と悲惨な戦争を繰り返さないために、戦争をすることは悪である、なんとかして、これを防ごうというつよい意思を持っていました。国連憲章は、こうした考えでつくられたものです。この流れにもとづいて、だが、国連憲章の到達点を超えて、日本憲法は、軍備の放棄、交戦権の否認にまで踏み込んだのです。自国で300万人、アジアで少なくとも2,000万人の死者を生んだ、つまり、アジア諸国の人々をそんなにまで殺した私たちは、憲法に9条を明記し、この理想を貫くことを、国の内外に誓ったのです。 この憲法9条を、いまも守り抜くことの大切さは、のちに〈パート5〉「もうひとつの日本を語ろう」でくわしく話すように、ますます明白になっています。憲法9条は、今、もっとも明るく世界に輝いているといっていいでしょう。 自民党の9条改憲案 にもかかわらず、自民党は、どのように憲法9条を変えようとしています。どう変えようとしているのか?憲法9条第1項は手をつけずに、しかし第2項を変え、@自衛隊を軍隊として認め、A「集団自衛権を認め、さらに、国際貢献」を口実にして海外での戦争参加を認めるというのが、自民党改憲案の基本です。なぜ、こんな改悪をしようとするのか?それは、アメリカ、日本財界、そして政権政党自民党の三者合体のつよい要求にもとづくものです。 アメリカの要求 9条改憲は、もともと、アメリカのつよい要求に始まっています。アメリカは長い間、9条改憲「押しつけ」をたくらんできました。安保体制・日米同盟路線の維持・強化に同意するこの国の支配層も、アメリカの要求に同調してきました。90年代に入って、この動きは、さらにピッチを上げます。日米共同声明(1996年)、日米防衛協力指針(ガイドライン、1997年)、PKO法(1992年)、周辺事態法(1999年)、テロ特措法(01年)、武力事態法(03年)、イラク派兵法(03年)、そして有事関連7法(04年)は、アメリカの新しい世界戦略にもとづく要求に、この国の支配層が呼応してつくられたものです。しかし、アメリカにとって、ここまでの法律とこれを使っての小泉内閣の「協力」にもかかわらず、まだ充分ではありませんでした。超大国となって、先制攻撃戦略を実行しても、アメリカは思いのままにはいかず、世界では孤立を深め、イラクでは泥沼におちています。こうしたアメリカにとって、アジアでの大国・日本をもっともっとその世界戦略に組みこみ、自衛隊をアメリカの大義なき戦争の第一線に参戦させ、日本の軍事力、経済力を自由に動員することが、今まで以上に必要になってきたのです。 そうした戦略を実行するとき、アメリカにとって、どうしても見過ごすことのできない障害物は、憲法9条であり、これを大義として掲げての日本の多数派国民の非戦の声と行動なのです。すでに述べたアーミテイジやパウェルの内政干渉といってよい発言の狙いは、ここにあります。「ショーザフラッグ」でも「ブーツオンザクラウンド」でも足りない。歯止め≠フ憲法9条を改憲して、大儀なき流血の戦場で、アメリカ軍とともに、戦闘を行え=−これがアメリカのつよまる「押しつけ改憲」の本質なのです。 なぜ財界は9条改憲なのか ここで、9条改憲について学習会で出る1,2の質問についての私の考えを語っておきます。第一の質問は「アメリカが、アメリカだけでは困る、日本も兵隊を出してくれというその腹の中はわかる。だが、日本の財界は、なぜそんなばかなことをするのか、どうしても理性的にはわからない。なぜですか?」という質問です。私は、財界は利益至上を求めるあまり、理性的ではなくなっているのだと言いました。 日本の財界は、90年代、とくにその後半から多国籍企業化して、全生産高の4分の1が海外です。経団連の奥田会長は、「メイド・イン・ジャパンの時代は終わった。メイド・バイ・ジャパンだ」と言いました。外国で雇っている労働者の数が、日本の完全失業者の数に匹敵する300万を超えています。奥田氏は、「外国での日本の権益を守るためには、やはり武装力が必要です」とはっきり言いました。もう一つ、財界主流は、武器輸出三原則を骨抜きにして、−できれば解消して−武器輸出大国になることを求めています。そうして、巨大産軍共同体企業をつくり、ボロ儲けをする、そのためには憲法9条は邪魔だというわけです。 日本の大企業は、平均して実質推計300時間の不払い残業を労働者にやらせ、20兆円の金をかすめ取っている。その意味で、被害者数最大、被害金額最大の企業犯罪をやっている。その結果、推計1万人を超える過労死を生み、3万4000人を超える自殺を生んでいる。つまり、大企業の多くは、私たちの仲間の命を奪ってまで利潤を追求しています。彼らは、それだけではなくて、外国に展開した権益を守るために武装力が要るということを公言している。大企業の首脳陣が過労死多発を目的とはしていないように、奥田氏も、とりたてて日本の青年に人殺しをさせることを好んではいないでしょう。しかし、巨大な多国籍企業となっている財界主流の意思として、海外で巨額の利益を手にするために、「死の商人」になることも、各国の人々の血を流すことも辞さないと考えるにいたった。当然ながら、殺す者は殺されるのです。日本の若者の血が流れるのを彼らの利潤のためのコストに計上したということだと思います。 なぜ小泉首相は海外出兵・改憲なのか ここまで言いましたら、さらに第2の質問がありました。「財界がそうだからといって、何で小泉首相はアメリカに行ってブッシュ大統領の前であんなに媚びを売るんですか」「なぜイラク出兵にしがみつき、『自衛隊のいるところがすなわち非戦闘地域だ』などという暴言を吐くのですか。そして改憲の旗をふるのですか」というのです。答えの一つは、小泉首相、そして政権政党自民党は、国民のためではなく財界の利益のために、政治を行う存在だからだということです。しかし、それだけではないもう一つの理由があるようにも私は思います。それは、この国の政権担当勢力は、アメリカ、ブッシュ大統領の支持を得て、権力を維持するという骨の髄までのアメリカ・ブッシュベッタリ病♀ウ者だからと私は語ったのです。財界の要望に従い、アメリカに対する従属と同時に、政治権力を握るためなら何をしてもいいという小泉首相、そして彼を指導者とし、歴史の教訓に目もくれずに、アメリカのネオコンまがいの言動をくりかえす政治家たちの姿は、平和に、人間らしく生きたいと思う圧倒的多数の国民に背をむけるものであり、本当に醜いといわなければなりません。 <改憲国家の「国柄A」−高度治安国家> 「戦争をする国」にする改憲国家は、自由と民主主義、人権をさまざまに侵害する高度治安国家と結びついています。これが改憲国家の第2の「国柄」です。これは後から私に意見を聞かせてくれませんか。この話をあまりするとよくないという説があるんです。私以上に学習会に出ているあるベテランの語り部≠ノこの話をしたときに、「今は世の中しんどくて、暗くて、つらいことでいっぱいだから、『改憲になったら悪い国になる』とあまり言い過ぎると、心が重くなって、かえって運動に消極的になる危険があるからやめたほうがいいのではないか」と言われました。しかし、今日の午後の集会で、映演総連の委員長は、「憲法を生かしたらどんなにすばらしい国になるかということの裏返しとして、これが奪われたときに自由と民主主義がどんなにひどいものになるか言うべきだ」と言っていました。私は、自由と人権のためにたたかってきた自由法曹団員のせいか、同じ考えなのです。私は、もし憲法を失い、改憲を許したときに何が起きるかを知ることによって、元気がなくなるような存在では国民はないと思います。平和のために総結集して闘うと同時に、民主主義と人権のために広く団結して闘うことは、国民の中に長くある伝統です。そこを信頼して私は新しい「国柄」は、自由と民主主義、人権のなくなる国であることを、ややくわしく語りたいのです。ややくわしく話すのは、ひとつには、この問題がなぜか、改憲反対運動のなかで、今まであまり語られていないと思うからです。もう一つには、平和とともに、自由と民主主義、人権を求める国民の要求は広く、かつ、つよいものがあり、長い間のたたかいで蓄積されたエネルギーがある。「平和の心」とともに「自由と民主主義、人権を求める心」に火をつけることは、改憲反対の運動を相乗的に発展させると考えるからです。 「戦争をする国」は民主主義と両立しない 戦争は、自由と民主主義、人権を奪います。生命を奪う戦争は、個人を尊重することも、かけがえのない生命を大切にし、幸福を追求する権利をも否定するのです。もともと、戦争は常に自由と民主主義、人権を弱めるものです。あえて誤解を恐れずに言うならば、その戦争が「正しい防衛戦争」であっても、そうだと思います。しかし、汚れた戦争であればあるほど、人権蹂躪はひどくなります。典型は、戦前の治安維持法下の日本を考えてください。ヒットラーのもとでアウシュビッツの虐殺がなぜ行われたのかを考えてください。汚れた戦争は、一般に「平時」にみんなが考える以上に、自由と民主主義、人権を根底から奪うのです。 アメリカの愛国者法の実情 それは70年以上前の戦前の経験で、今は違うのか。そんなことはないと思います。イラク戦争でアメリカ軍が捕虜をどう虐待しているかはよく知られています。だが、人権の侵害は捕虜にとどまらず、自国の人々にも広がっているのです。アメリカでは9・11のテロに対するショックを利用して愛国者法が作られ、同法に基づく11の大統領府令が作られました。何が起きているか。要するに、テロリスト、テロ組織というレッテルを張ると、誰でも逮捕し、長期に勾留できる仕組みがつくられました。現にアメリカでは、2,000人以上の人が愛国者法違反でつかまっていると言われています。弁護人ともろくすっぽ会えない。裁判は、軍事裁判です。この裁判にかけられると、軍人が弁護士になる。私費で軍人以外の弁護士を雇うことはできるけれども、普通の弁護士は、軍事裁判所の裁判官が「この法廷は非公開」と言うと、特別に許可された場合以外は法廷から出ていかなければならない。弁護人抜き裁判になる。この軍事法廷は、もちろん罪名によりますが、死刑の判決までできるとなっているのです。 リン・スチュワートさんという著名な女性の弁護士がいます。弁護士になって約30年の経験があり、ニューヨーク市で著明な刑事裁判官ベストテンの1人に入った立派な弁護士です。この弁護士が逮捕され、起訴されている。なぜ起訴されたのか。テロリストとして逮捕、起訴された人に頼まれて弁護をして、3年間にわたって接見をしていた。この3年間の接見が全部盗聴されていた。今日本では、そんな盗聴をしたら、弁護権の侵害だとなってえらいことになります。でも、アメリカの大統領令によると、テロリストの弁護については盗聴していいという法律になっているというのです。彼女は何で引っかかったのか。彼女はテロリストとされる被疑者に、「あなたが訴えている病気なのにまともな医者の治療を受けられないということがもし世の中に知れたら、あなたを取り締まっている当局は困難な状況になるでしょう」と言った。これがテロリストを擁護したことになる、というのだそうです。同じ弁護士として本当に「何で?」と言いたい……。 戦前の治安維持法のときに、私たちの先輩は共産党員として弾圧を受けた人々の弁護に立った。だが法廷が始まる直前に、これらの弁護士は、「弁護することによって治安維持法に違反した」ということで、全員逮捕され、弁護士資格を奪われた。今日のアメリカでは、それに類することが起きているわけです。 日本の実態−二つの経験から でも日本はアメリカと違って別なのでしょうか?すでに〈パート1〉でもふれたのですが、20年前に国家機密法が国会に上程されました。法案にはマスコミの報道をも、国家機密をもらしたものとして死刑にする規定がありました。井戸端会議で奥さんが、うちの夫は最近夜なべで遅い、体が心配だ、石川島播磨で新しい兵器を軍艦に備え付けているらしいと言ったら、機密を漏らすという故意がなくても、「過失によって機密を漏らした者」として逮捕、投獄できるという規定もあった。私たちは総力を挙げて反撃をして、この危険な法律を憲法の平和主義、そして憲法21条の表現の自由違反だと主張して世論を結集して、廃案にしました。でも、約20年前に自民党がこんな法律を国会に上程したことを忘れるわけにはいかないのです。 「戦争をする国」になる、そのために全面改憲をするというときに、どこで、どんな悪法が出てくるかを今、予言することはできませんし、したいとも思いません。私は、「憲法が変わったら、『つづら』をあけたように、悪法が続々出てきますよ」と言うつもりもありません。どんな事態になっても私たちはたたかって、そんなことは許さないために全力を挙げるでしょう。けれども、この日本国憲法があるもとで、すでに20年前に時の支配層はこんな法律を通そうとしたのだということを忘れるわけにはいかないと重ねてつよく思うのです。 目の前の弾圧 私は20年前の経験だけで言うのでも、ましてや戦前の治安維持法の知識だけで推定しているのではありません。すでに目の前の現実が、私の指摘が思いすごしではないことを証明していると考えています。今すでに堀越さんに対して、国家公務員法違反という違憲の法律を使った弾圧が起きているじゃないですか。自衛隊員の住んでいる集合住宅の郵便受けにイラク戦争反対のビラを入れた3人の市民がこともあろうに、住居侵入罪で逮捕され、75日間も勾留された上、起訴されているではありませんか(注5)。しかも、こうした「分かりやすい弾圧」以外に「弱肉強食」の社会から多発する悲惨な犯罪、それに対する国民の高まる不安と「安全な社会」をという要求を利用して、住民をまきこんでの「秩序強化」体制の指導が進められてきています。住民が自ら警察と協力し合って町の安全を守らせるという生活安全条例ができています。つまり、一方で社会不安を生みだす大もとの原因は、利潤至上、「弱肉強食」政策をますますつよめながら、他方で「安全」を理由に町の住民をある種の「自警団化」していく動きがすでに起きていることを、単純な反対ではすまないことを知りつつ、私は心配しているのです。 (注5)自衛隊員の集合住宅(「官舎」)へのビラ配布について、04年12月16日、東京地裁八王子支部は明快な無罪判決を行った。だが、東京地検は控訴した。そして、同年12月23日、今度は葛飾のマンションでの戸別ビラ配布を警察は逮捕し、東京地検は、05年1月11日、身柄拘束のまま起訴した。憲法も法律も、正当な判例をも無視する異常な事態と見なければならない。 「国防の義務」のもたらすもの 国民に義務を課すための、改憲が何をもたらすかは様々です。ここでは、そのもっとも分かりやすい例として、「国防の義務」を憲法に書くことで、なにがおきるかを話すことにします。国防の義務が憲法に書かれるということは、教科書に国防の義務が載る、それを先生は教えないわけにはいかないということです。今の日の丸、君が代の強制の比ではありません。憲法上、国防の義務が明記されたら、有事法制で作られたいろんな協力義務、看護師、建築土木労働者、運輸労働者らが有事の場合に、政府、自衛隊、自治体の求める行動に協力しなければならない、という協力義務はどうなるのでしょうか?おそらく、協力を拒否する者に対して刑罰がつくことになると思われます。さらに言えば、国防の義務が明記され、そうした憲法を全国民が擁護する義務を負わされたら、反戦・平和の運動は、憲法擁護義務違反の活動になること、そこから様々の権利侵害、抑圧が広がる危険をも直視しなければなりません。いずれにしても、国防の義務明記の被害は、多くの国民に及ぶと思われてならないのです。 時間がないからスローガン的なことだけ言いますが、教師は長い間、「教え子を2度と戦場に送らない」と頑張って来られました。だが、改憲後は、戦場に送る教育をまたさせられるのです。看護師さんたちは、「白衣を2度と戦場の血で汚さない」と言ってきた。だが汚すことを刑罰を以って強制されることになりかねないのです。母親たちは「命を生み育てる母親は、平和を求めます」と言ってきた。だが、子供たちは、国防の義務のもとに生命を失う危険にさらされるのです。国家公務員、地方公務員は、憲法を擁護し、住民に奉仕し、国民に奉仕することを誓約し、自らの誇りとして生きてきた。だが、今度は戦争に国民を協力させることが強制されるのです。これらすべては、改憲憲法上明記された国民の憲法擁護義務で強制されることになるわけです。 なんという自由のない、そして、それ故に暗い国、暗い社会なのでしょうか。私は、こんな国に絶対にしてはならない、そのことを国民に話し、平和のためにたたかうこと、戦争をする国にしないことは私たちの自由と人権を守り、幸福を追求するために不可分の課題なのだと、くりかえし、訴えたいと思っています。そうした思いで、今日も、話しをしているわけです。 <改憲国家の「国柄B」−「弱肉強食」国家> 自民党改憲案は、憲法9条改憲だけではなく、憲法全文に及んでいます。もちろん、くりかえし述べてきたように改憲の一番の、そして最大の目標は9条改憲により「戦争をする国」にすることです。だが彼らは、この機会に、直接に「戦争をする国」にするためだけではなく、もっと幅広く、憲法原理を様々にくつがえし、新たな「国柄」の「新しい日本」を丸ごと作ろうとしています。この新しい「国柄」の中身の一つは、アメリカ主導のグローバリゼイションと、そのもとで多国籍企業として高利潤を上げるために、この国を「弱肉強食」の新自由主義国家にするということです。現行憲法の条文との関係で言えば、すでにのべてきた憲法13条の「空洞化」であり、憲法25条の生存権の形骸化です。改憲勢力が、憲法13条や憲法25条の条文そのものを変えようとするかどうかはまだ分かりません。しかし、改憲が個人の尊重・幸福追求権と生存権を空洞化、形骸化しようとするものであることははっきりしてきています。このことは二つの道筋で進められるでしょう。一つは「戦争をする国」と結びついた生存権の形骸化によってです。もう一つは、自己決定・自己責任を口実としての社会保障の切り下げによってです。 「戦争をする国」は生存権を奪う まず「戦争をする国」は、私たち国民の生活を破壊するということについて話します。生存権は社会保障で最低限の生活を守るということですが、戦争をする国は社会保障で国民の権利を守ることはできない。「大砲はバターを奪う」のであり、軍事国家は福祉国家と両立しないのです。これは、洋の東西を問わない法則的事実です。 戦前、日本は戦争のために、今日の金に換算していくらの戦費を使ったかという数字があるのですが、推定380兆円も使っているとされています。380兆円というのは、1万円札を平積みにして、100万円で1pですから38万メートルの高さに達する金額です。こんな巨額な戦費を使う状態になったときに、今のアメリカもそうであるように、社会保障の大幅な切り下げが必ず来る。赤字国債が湯水のように発行される。消費税も15%どころではなく、上がっていくのです。戦費のために憲法25条を形骸化することを、改憲勢力は充分承知していて、社会保障について、国民に社会的費用の負担を義務づけています。つまり、高額化していく社会保障費の負担を憲法上の義務とするというわけです。 いっそうの「弱肉強食」化 新自由主義は、さきほど話した戦費負担の点だけではなく、そもそも、「弱肉強食」の国家・社会にするというものです。それは、一人ひとりの人間が幸福を追求する権利があり、国は国政上最大限そのことを保障するという現憲法の理念を否定するものです。幸福追求のいわば、ミニマムな底支えとして、国の責任で生存権を保障し、社会保障を充実させるという原理は否定されるのです。すべては「自己責任」であり、「弱者」のための所得再分配という性格を持つ社会保障は、有害、無益なものだというのが改憲案を貫く理念です。こうした考えは、すでに述べた社会保障の「空洞化」だけではなく、家族のあり方についても及びます。自民党改憲案(『論点整理」)が、「家族の共助、責任」を憲法に明記することにも現れています。 すでに、民法に、一定の家族の扶養義務が明記されているのに、改憲で「家族共助」を全国民の義務とするのはなぜでしょうか?一つには、かつて60年代の改憲策動のときに、憲法24条を改定して、家庭は「愛と犠牲の運命共同体」であるとしようとした時からの復古主義の流れがあるでしょう。もうひとつ、よりつよい要求として、年令や、介護など、国家社会が大きな力をそそぐべき課題を放棄して、矛盾を「家族共助」に転嫁し、利潤至上の新自由主義国家をつくるということがあると思われます。 いずれにしても、「改憲国家」は「強者」はますます富み、「弱者」はますます貧しくなる「国柄」にするものです。すでに今の年金改悪も、消費税のアップもそうでしょう。大企業の負担分を減らして、その分を国民の負担にし、しかも社会保障を切り下げる。改憲国家になったとき、この仕組みが今とは比較にならないほどにつよめられるのは目に見えていると言わなければなりません。 <改憲国家の「国柄C」−統治体制の強化と国民の排除、そして「心の支配」> 「戦争をする国」「弱肉強食の国」をつくるためには、すでに話したように、国民に様々に義務を課し、治安を強化する仕組みが必要です。しかし、権力によって、国民を縛り、押さえつけるだけでは、なお足りません。改憲勢力は、なお、二つの仕組みを「改正」憲法に盛りこもうとしています。1つには、国民の政治参加を大巾に弱めるということです。主権者である国民が選挙などで主権を行使し、政治を変えようと動き出すと支配は根底から動揺します。そこで、改憲勢力は国民が政治に参加し、政治を動かすことが困難になるようにする仕組みを改憲でつくろうとしています。もうひとつは、その上で、政治的な決定とその実行を、より自由に、そしてスピードアップしてやれるようにすることです。その上さらに、「改憲国家」に国民が心から「忠誠」を誓って生きることを憲法を武器に実現しようということまでたくらんでいるのです。 恐るべき罠−政党法 国民の政治参加を著しく困難にする罠≠ニして「論点整理」にさりげなく選挙制度の憲法による固定化と政党法の制定が述べられています。前者は、国民の意思を歪める小選挙区制主体の現行選挙制度を憲法で固定しようとするものだと考えられます。後者は、改憲反対の学習会などで、今まではほとんど指摘されていないことですが、さらに重大は罠≠ナす。 憲法で政党法の制定がきめられたら、事態は重大です。なぜか?今は、政党は憲法21条の結社の自由(憲法21条第1項)にもとづいて、国家から監督や規制を受けずに活動する自主的な組織です(例外的に政治資金法による規定はある)。だが、支配層はかねてから政党を国家が規制できるようにしようとしてきました。自民党は時の中曽根首相の指示で政党法を作ろうとしました。今から21年前、1983年のことです。指示にもとづいて試案(「吉村試案」)がつくられました。それによれば、国が要件を決め、衆、参両議員からと有識者によって構成される、つまりその時点での多数党が主導権をもつ「政党委員会」が認めたものだけが政党として認められるという規定がありました。政党の要件の中には、「革命の防止に寄与する義務」「責任政治の具現に寄与する義務」が入っていました。さらに、党費納入を公表する、誰から何ぼ党費が入っているというのを政党委員会に届け出なければならないという規定まであったのです。これは党員名簿の届出と同じことです。くわしく解説する時間はありませんが、こんな政党法になったら、改憲憲法に反対し、反戦平和を叫び、アメリカと一緒に海外で戦争することに反対する政党は、政党法によって政党として認められないことになってしまいます。改憲によって、立法される政党法の内容が、あまりにも悪名高く、ついに国会上程できなかった吉村試案と同一のものになるかどうかは分かりません。政党であることを否定された政党、そしてその政党員がどういう不利な処遇をされるかも、改憲後につくられる政党法の内容によります。しかし、少なくとも、公選法上、選挙で政党または政治団体として活動する権利はまず認められないでしょう。もし、党費公開を口実とする事実上の党員名簿の届出が義務づけられたら、戦争政策に反対し、「反政府」的な政党とされる政党とその党員は大きな打撃を受けることになります。こうして、法制度上も実際には国家公認の「二大政党」しか長く存在しなくなる危険は現実のものです。改憲によってこうした「国柄」になることは反戦・平和、自由と民主主義を求める政党とその政党員にとって耐えがたいことであるのは当然です。だが、さらに私たちが重視しなければならないのは、禍はけっしてそこに止まらないのです。政府や財界に対して正面から批判し、国民の要求実現のために対抗していく政党を失うということは、結局は、国民の政治参加、自らの手で政治を支えて行く道が閉ざされてしまうということに外なりません。被害は全国民に及ぶのです。 憲法原則との関係で言えば、あたかも政党だけの問題であるかのように、さりげなく提起されている憲法による政党法の法制化は、結社の自由、思想良心の自由、国民主権の柱である参政権、議会制民主主義のすべてを侵害する強力な罠=E全身に及ぶ毒薬≠ネのです。こうした罠≠つくる狙いは、あえてくりかえしますが「戦争をする国」「弱肉強食の国」とすることに深く結びついていることは、確かだと言わなければなりません。 住民自治の解体 憲法5原則の一つに地方自治があります。地方自治は住民自治、つまり、住民が地方自治体の運営に参加していくということなしには成立しません。こうした立場から「地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事機関として議会を設置する」(憲法93条第1項)、「地方公共団体の長、その議会の議員及び法律で定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する(同、第2項)としています。自民党案は、改憲して道州制にするとしています。では、市町村はどうなるのでしょうか?少なくとも、憲法上の地方自治体ではなくなり、したがって、市町村の首長は、直接選挙ではなくなる−そうすることが立法上可能になる−のだと考えられます。市町村議会も憲法上はなくすことができるし、そうすればこれら議会の議員はみななくなってしまうことになります。 憲法はまた地方自治体に条例制定権を与えています(憲法94条)。これにもとづき地方自治法は住民に条例の「制定又は改廃の請求ができる」(同法74条第1項)としています。住民は、この条例請求権を活用して、住民運動を展開し、大きな成果をあげていることはみなさんよく御承知のとおりです。だが、自民党案では「住民投票の濫用防止」を憲法に盛りこむことを検討するとしています。これらを総合すれば、自民党は改憲によって住民自治をほとんど「空洞化」することを狙っていることははっきりしています。国政からだけではなく、地方政治からも国民参加の道を狭めるというのが「改憲国家」の「国柄」なのです。(注6) 内閣・首相の優位と迅速な執行 自民党案は、「統治機構について」の項で、「新憲法には、迅速かつ的確な政策決定及び合理的かつ機動的な政策執行を可能とする統治システムが組み込まれたものでなければならない」としています。「戦争をする国」「弱肉強食の国」にして、必要な立法をたてつづけに行い、迅速に執行するために改憲するということです。具体的には内閣・首相の権能を強化し、衆参両院という「二院制を衆議院の優位、参議院の形骸化」を行うことを提起されています。議会の審議を形だけのものにし、スピードアップするために、憲法が定めた「両議員は、各々その総議員の1/3以上の出席がなければ、議事を開き議決することができない」(憲法56条第1項)という規定は削除するとも言っています。一言で言って、議会制民主主義の憲法原則を大きく弱体化させるものです。(注7) (注6)(注7)これらの点については、自民党憲法改正大綱でさらに鮮明になった。<追録>の1の(5)「統治機構の強化と国民の政治参加排除の『国柄』−『国柄』のB」参照 「心の支配」に及ぶ 改憲案は、改憲国家に反抗しないで結集するように、国民の心をも改憲憲法を武器に支配し、改憲国家イデオロギーで国民を統合することを狙っています。「戦争をする国」「弱肉強食の国」は、必ず国民との矛盾を深めます。それを「高度治安国家」の力で押さえ、「国民の政治参加の排除」で解決しようとしても、なお、支配は矛盾を深め拡大し、「改憲国家」は彼らの思いどおりには機能しない危険があります。支配にとって理想なのは、広範な国民が新たな国家理念のもとに、納得して結集することです。改憲憲法はそのことを狙い、様々な理念を一見、「美しい言葉」で飾っています。わが国の「歴史」「伝統」「文化」「愛国心」の強調という復古主義の色彩の濃い言葉や、「共生社会の実現」「私の役割分担」など「新しい言葉」を使っての義務、責任の強調などがそれです。だが、たとえば改憲案の「歴史」には、現憲法前文が明記している「戦争の惨禍」も、これを「再び起こることのないようにする決意」もありません。「共生社会」の強調はあっても、「弱肉強食」で、「格差社会」が拡大している事態に対して、「生存権」や働く権利をどう保障し、公務員らから奪われた団結権を回復することは一言もありません。 要約すれば、自民党改憲案は、「新しい歴史教科書」同様に、侵略戦争を行った歴史に口をつぐみ、論証抜きに価値高いものと美化する「新しい歴史教科書」や「自己決定」「自助努力」を強調し、成果主義賃金、多様な雇用形態による働きやすい労働を美化する財界のイデオロギーと連動している「心のノート」のイデオロギーを取りこんだものだとみてよいでしょう。 さらに言えば、憲法9条を改憲し、海外に出兵して、「国際貢献」−実際には超大国アメリカの定める国際秩序の確立の片棒をかついで「大国」として振る舞う、それが国民に利益になるという大国主義イデオロギーによる国民の統合がたくらまれているのです。 そして、このような本質的に歴史の流れに反し、事実と道理に反するイデオロギーを国民に直接に国家が権力的に注入する最重要なやり方としての教育が計画されているのだと思います。(これが残ります すべての法律のなかで、もっとも明確に憲法の理念にもとづくことを明記している教育基本法の全面改悪を行おうとしているのは、その重要な証です。)教育基本法前文はつぎのように明記しています。 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。 ここに日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確定するため、この法律を制定する。」 この前文にもとづいて教育基本法は、教育の目的(同法第1条)で、「平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたっとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない」としました。これが憲法26条の教育を受ける権利の中身です。教育基本法改悪は、こうした正当な教育を逆立ちさせ、心まで「戦争をする国」「弱肉強食の国」に賛同させようとする意図を明らかにしているのです。 <結論−見えてきた改憲国家像> 〈パート□3〉の結論として、いままで、改憲国家の「国柄」として解明したことにより、見えてきたと思う改憲国家像を要約しておきます。 改憲国家は「戦争をする国」であり「弱肉強食の国」である。そうした政策を強力かつ迅速に実行するための「高度治安国家」であり、「政治参加から国民を排除する国」である。国民が自ら主人公として、行動することを阻害し、改憲国家に結集させるための「心の支配をする国」である。 これを現憲法原則との関係で言えば、国民主権、恒久平和主義、基本的人権、議会制民主主義、地方自治のすべてを全面的にあるいは重要な部分を侵害した憲法に、そして国家は立憲主義に反して国民が服従しなければならない「国柄」である。個人が尊重され、幸福追求する権利が国政上、最大限に尊重される国とは全く異質の国家−これが改憲勢力のマルゴト改憲によって出現する改憲国家です。 私は、9条改憲反対の一点で広範な共同をつくり、改憲を阻止するということの重要な意義を痛感しています。だが、そのことは、「戦争をする国」というのは、結局は、自由と人権、民主主義を奪い、人間らしく生き、幸福を追求することを不可能にする国にするということだと言うことを明らかにすることと矛盾するものだとは考えません。「自説」の押しつけはどんな場合でもすべきことではありません。そのことを自戒しながら、条件が許すかぎり、改憲勢力の「マルゴト改憲の国家像」を語り、改憲に反対しようと話し続けているのです。
私は、今日の話の冒頭で、改憲をめぐるせめぎ合い≠フ渦巻き状況を話しました。そして、改憲を阻止し、憲法を生かすたたかいには、勝利の条件があること、だが、この条件を生かして、現実にするには、私たちが立ち上がり、かつてない共同を広げて広範で強大な国民世論をつくることがカギであることを話しました。世論調査での改憲賛成6割、9条改憲反対6割という現象的に見れば「ネジレた数字」をどうみるか。これを改憲反対のつよい世論、より大きな世論につくりあげていく必要があり、そのためには真実を国民に語り、みんなの確信にすることが求められている。そうすれば「真実は勝利する」であろうと語りました。これらの点については、もう繰り返しません。 今日の話の〈パート4〉として、私たちの改憲阻止の運動がいま、どこまで進んできているか、どのようにかつてない共同が広がってきているかを語り、そこに私たちの勝利の光が見えてきていることを話すことにします。 渦巻くせめぎ合い≠フなかに生まれている有利な条件を生かし、勝利への道を切り開くカギはかつてない共同をつくることであり、そのことを実証する運動が進んでいることを報告し、お互いの確信にしたいからです。 〈パート4〉では二つのことに的を絞ります。一つは平和を求め、憲法9条改憲に反対する運動がイラク戦争反対と結びついて、広がっているということです。もうひとつは、かつてない改憲の危機は、かつてない共同を広げる契機−あるいはチャンス−になっているということです。 この二つの新しい条件を大切にして、運動を広げれば、9条改憲阻止、さらには憲法を日本に生かす運動の勝利の可能性が見えてきていると私は考えています。 <イラク反戦で広がる共同> 大義なきイラク戦争の正体は、国民に知れわたりました。自衛隊が出兵し、なお撤退しないこと、しかも、さらに出兵期間を1年延長することに反対する国民は様々の世論調査でも6割を越えています。 サマワは誰が見ても、危険な戦闘地域になっており、イラク特措法からいっても撤退すべきではないかという当然の質問に、小泉首相は「自衛隊のいるところはすなわち非戦闘地域である」と答弁しました。この無責任で傲慢な答弁は、国民のきびしい批判にさらされ、小泉内閣の支持率を引き下げています。イラク出兵反対の声は、新たにより大きな波となって広がろうとしているといってよいでしょう。 北海道箕輪裁判の広がり すでにイラク反戦は、保守、革新の枠を超えた人々の声になり、いままでの垣根を超えた共同をひろげています。例えば元郵政大臣で防衛庁の政務次官であった箕輪さんは、自ら原告となって、北海道で自衛隊派兵違憲の裁判を起こしています。私は、今年の7月17日、北海道で自由法曹団の常任幹事会に参加したときに、箕輪さんのお話を聞きました。彼は、「残りの命はたくさんはないでしょう。でも、命のある限りこの間違いを正したい」と言いました。心を打つ決意表明でした。こうした箕輪さんの決意に応えて、思想信条、党派を超えて、106名の弁護士(北海道の全弁護士の1/4)が代理人となって裁判を進めています。箕輪さんのイラク反戦のやめがたい熱い思いが、共同を広げたのです。こうした運動は、憲法9条改悪反対につながる法則的な条件を持っているといえるでしょう。その証拠を箕輪さんの行動に私は見たような気がします。今日の午後の集会でも医療関係者の方から報告がありましたが、医療関係者も9条の会を作って立ち上げています。その呼びかけ人が27人いますけれども、その中には、医師としてのキャリアもある箕輪さんが入っているのです。イラク反戦と9条改悪反対とはつながり、防衛庁の政務次官であった自民党の中枢にいた人がそれに立ち上がっている。ここまでの事態は、60年の安保闘争のときにはありませんでした。まだ萌芽ですが、イラク反戦と憲法9条改憲反対の運動が結びあい、相乗的に発展する法則的可能性をこうした事実のなかに、私は見ているのです。 『世界』竹岡元防衛庁官房長の発言 同じような例をもう一つあげましょう。 岩波書店の『世界』の別冊(732号)、「もしも憲法9条が変えられてしまったら」という本を、私はいまここに持ってきています。この中に、防衛庁の官房長で、私の記憶では、「2週間あれば有事法制を作る準備は整っている」とかつて国会で証言した竹岡勝美元防衛庁官房長の一文が載っています。彼は、「9条という尊いもの」と書き、イラク出兵についてつぎのようにきびしく批判しています。 「米本土に一兵も侵略させず、一発のミサイルも撃ち込まなかったイラク戦争に対する米国の先制攻撃と占領が、国連憲章違反の非行であることは、三歳の童子でも理解します。これを大義と讃えて支持し、その占領政策に自衛隊を参加させた小泉首相は、自衛隊員らも含む国民を誤って導き、自衛隊の歴史を汚したものと弾劾せざるを得ないのは残念です。」 彼は、この一文の最後を、「私は戦後の平和、護憲、反核、在日米軍の縮小から撤収を願う初心に悔いはありません」という言葉で結んでいます。イラク反戦の声は、防衛庁の中枢にいた人々を含めて、憲法9条改憲反対の声となって広がっているのです。 市民を結集したイラク裁判 箕輪裁判の原告は1人ですが、名古屋地裁始め、多くの裁判所で3,000人に近い市民が原告となってイラク派兵違憲裁判が始まっています。こうした裁判での原告は実に多彩で、広範な市民が結集しています。階層を超え、組織の有無を超え、これまでの平和運動参加の経験の有無、あるいは違いを超えた大きな流れがここにも見られます。こうした新たな共同の広がりに私は確信をつよめているのです。 <大義は共同することにある> 私たちはかつてない共同をつくり、広げつつあることは確かです。しかし、まだ充分ではありません。様々に垣根があり、新旧の障害があることは、否定できません。軽視できない障害の一つは、いままでの平和運動と、憲法闘争のなかで、長い歴史のなかで形成された様々な溝やあるいは亀裂です。その原因や、一方、あるいはそれぞれの責任を論ずるのは、私の立場ではありません。私が一番言いたいのは、改憲を阻止するという大義のために、過去の行きがかり、あるいは現在の理論上、運動上、組織上の「大異」を「保留」しても、いまは共同につくことこそが今日の大義≠ネのではないだろうかということです。 もちろん、この問題は労働運動の第一線に立ち、平和運動、憲法闘争でも現場で責任をもって活動しいてきたみなさんの方がよく御存知のことでしょう。一介の弁護士にすぎない私にあれこれの発言をする資格があるとは考えていません。しかし、なんとしても共同を広げて勝利をという思いから、ただ1点、自由法曹団の乏しい経験だけを言わせてもらいます。 平和運動を一緒にやってきた人たちとの間にあるさまざまな違いをどこでどういうふうに一致させていったらいいのかについて、労働運動は労働運動で私たち弁護士と違ってはるかに困難な障害があるでしょう。くりかえしますが、その原因、当否、責任の所在、あるいはそのそれぞれの度合いを、私はあれこれ論ずる立場にはありません。でも、なお、あるいはそれだからこそ、垣根を超えた共同を切望するのです。 「弁護士さんは、組織を背負っていないから簡単に言えるが、現場はなかなか大変なんですよ」と言われることがあります。そうかもしれません。けれども、今本当に必要なことは、平和のために結集することだとつよく思うのです。憲法の生命が奪われようとするときに、これに反対して共同することをためらい、背を向ける理由はない、私たちの大義は平和のために、改憲阻止のための総結集にあると思われてならない−そのことを重ねて申しあげて〈パート4〉を終わることにします。
いただいた時間が迫って来ました。〈レジュメ〉の〈パート5〉にかなりくわしく項目をあげていますが、時間の関係で結論だけを話すことにします。〈パート5〉として、改憲をめぐるせめぎ合い≠ノ打ち勝つには「もうひとつの真実」として、「もう一つの日本」を語ることが大事なのではないかと私は考えています。ですから、学習会では時間は、1時間の枠なら5分から10分位ではあっても、必ずこのテーマを語っています。 <もう一つの真実−「もう一つの日本」> なんとしても改憲を阻止しなければ私たちの不幸、この国の禍はとりかえしのつかないものになることを、語るだけでは、足りない。それでは真実を語り切ったことにならない。私たちが平和に、幸せに生きられる「もう一つの日本」をたとえ限られた時間でも、学習会の中で−多分、最後で−語る必要があると考えているのです。なぜか?理由は二つあります。一つはすでに話しましたが、改憲勢力は9条改憲だけでなく「マルゴト改憲」で打って出てきている、しかも、それによって現状を「改革」し、「国民が共に幸せになる国」にするのだということを繰り返し宣伝しているからです。みなさんの多くは、「国民を幸せにするための改憲だなんて、よくもぬけぬけと言うものだ」と腹を立てておられるでしょう。もちろん、私もそうです。でも、腹を立てた仲間だけで、怒りを語り合っているだけで、私たちが過半数の反対を結集できるのでしょうか。それでは危ないと私は思っているのです。なぜなら、自民党らのこうした宣伝は、かつてない社会や経済の歪みに苦しみ、前途に多くの不安を抱いている国民の少なからざる部分の心をとらえる可能性があると思うからです。論証抜きで言えば、「構造改革」で小泉首相が、一時、圧倒的支持を集め、その後、多くの国民の失望をかいましたが、いまも「改革」は、なお、一定のプラスイメージになっていることと似た問題です。それほどに国民は現状に苦しみ、悩み、改革を求めているのです。こうした真実に反する宣伝を打ち破るには、嘘を具体的に暴露するのが、もちろん基本だとは思います。だが、それだけで私たちは、マスメディアのバックアップも得ている彼らの策動に勝利できるのでしょうか?私は、もう一つの語るべき真実として、日本国憲法を護ること、その実現を図り、進めていくこと、それによってつくられる国と社会こそが国民の要求を実現することを語る必要があると痛感しているのです。そして、さらに、そのことが単なる夢≠ナはなく、我が手によって可能な現実であることを訴えるべきだと思うのです。 新たな力を結集する 本当に国民が力を合わせて改憲を阻止し切ったら、そこから何が開けるのかということを学習会でぜひ語ったほうがいいのではないでしょうか。改憲勢力の全力をあげての改憲策動を阻止したら、そこから新しい力が生まれる、この国と平和で民主的で、みんなが人間らしく生きられる、目いっぱい幸福を追求できる国と社会をつくることに大きく道が開ける−そのことを心をこめて語りたいし、語るべきだと思うのです。 改憲阻止のたたかいを広げれば、日本の未来を担う人々が生まれ、成長するに違いありません。日本憲法をみんなが読み直す。そして、何百万もの人々が語り合ったら、そして何千万の署名を集めることに結集したら、そのために動く何百万という働き手を本当に作ったら、戦後半世紀以上にわたってゆがめられ、汚された憲法は生き返らせるスーパーパワー≠ェ生まれることでしょう。すでに〈パート2〉でくわしく話したように、日本憲法は素晴らしい憲法です。その憲法を今回のたたかいでつくられるであろうスーパーパワー≠ナ完全に実施したら、この国は、平和でみんなが幸福を追求できる国になる。私の世代が充分にとり組めなかったアジアの人々に対する戦争責任を果たす最大の道は、戦争被害についての裁判をたたかい、勝利するとともに、アジアにおいてアメリカの先制攻撃戦略と、これに同調する日本の支配層によって起き得る、新たな戦争の芽をつむことです。日本が本当に非戦平和の立場に立ち切れれば、アメリカの先制攻撃戦争に協力しない立場を貫き切れれば、アメリカは世界でも、ましてやアジアで戦争ができない。その状態を作ることによって、世界とアジアの人々に対する私たちの誓いを果たそうではないですか。そのことをも訴えたいのです。 国民の誰でもが、平和を希求している。人間らしく生きたいと願っている。アジアの人々と共生したいと考えている。でも、「日米同盟」に長くしばられてきているなかで、「これしかない」という思いや、「別の日本を求めても不可能だ」というあきらめが、少なからず広がっている。そうした状況のもとで、「アナザーワールドは可能だ」「もう一つの日本は可能だ」「その可能性を現実のものにする決定的なカギは改憲の阻止であり、憲法をこの国に生かすことだ」と今こそ語るべきだ−それを語れる語り部≠ノなりたいと考えて、私は今、努力しているのです。 <世界の平和の流れとともに> 憲法9条を擁護し、「もう一つの日本」をつくることは、くりかえしますが夢≠ナはありません。それが今日、現実に可能な条件が世界に生まれています。そのことがかつてなく明らかになった時代に私たちは生きているのです。 憲法9条を掲げ、「平和の国」として進むという私たちの目指す方向は、世界の歴史の方向と一致している、私たちは孤立しているのではけっしてない−そのことを私は学習会で話しています。今日はもう多くを話す時間がありません。しかし、仮に1時間、いや30分間の時間であっても、そして5分しかこのことを語る時間がなくても、私は必ず話した方がいいと実感しています。世界の流れは戦争に反対し、平和への道を進む方向にあることを証明する豊富な事実が、今、目の前にある。この事実は、憲法改悪反対に、確信を持つ人々を増やす大切な「情報」です。だが、この「情報」は、マスコミの状況もあって、多くの国民には届いてはいません。これも「例え話」ですが、労働のルールについてのたたかいで、EU諸国やILO条約の水準を語ることは、運動を発展させました。同じように、いやそれ以上に、いま世界もアジアもかつてない勢いで平和へ向かって進んでいることを、この機会に語ることが大事だと思われてならないのです。 すでに、第2次大戦直後の国連憲章は、侵略戦争の再現を許さないという立場に立っています。最近の25ヶ国人が参加しているEUの憲章も、国連憲章と同じ立場です。身近なアジアでは「ASEANの平和憲法」といわれる東南アジア友好協力条約(TAC)はASEAN諸国を大きく超え、中国、インド、パキスタン、韓国、ロシア、パプアニューギニア、そしてアメリカに遠慮していた日本も加盟するに至りました。加盟国の総人口は33億に達しています。様々な矛盾、あるいはせめぎ合い≠持ちつつも、大局的には平和を大切にし、戦争をしないというのは、世界各国とその人民の巨大な流れになっているのです。こうした流れの根底には、「もう一つのスーパーパワー」と言われる世界各地での民衆自身の多様で、巨大な運動の前進があります。イラク反戦での世界での3,000万人のデモ・集会、そして、アメリカの国連での、そして世界での孤立はその証拠です。学習会の経験で言うと、きちっとこうした話ができたときに、聞いている人の顔色は明るくなります。感想文を集めていますけれども、そこのところはみんなから積極的な感想が多く寄せられています。だから皆さんも学習会で世界の平和への流れを大いに語ったらと思うわけです。 かつてなく輝きを増す憲法9条 すでに憲法9条が世界のなかで、もっとも先進的なものであること、長年にわたって攻撃されながら、憲法9条が長く、そして、今も戦争参加で暴走することをくいとめる歯止め≠ノなってきたことはすでに〈パート2〉(「憲法とはなにか−輝く価値を語ろう」)のなかの<だが憲法は生き光≠放っている>(平和を守って生きている憲法9条)で語ってきました。ここでは、「もう一つの日本」の最大の柱として、憲法9条の恒久平和主義が、世界の流れのなかで、ますます、そしてかつてなくその光≠ましていること、そのことを国民に訴えることの大事さについて話すことにします。日本国憲法9条は、もう世界で孤立した理想ではありません。近年、世界は憲法9条を注目し、その評価は高まってきていました。1999年5月、オランダのハーグで世界100ヶ国以上のNGOが参加して世界平和会議が開かれました。そこで採択された「公正な秩序のための10の基本原則」の第1項目では、「すべての国家の場合は、日本国憲法9条が定めているように、政府の戦争参加を禁止する決議をすべきである」となっています。さらに2000年ニューヨークで行われた国連ミレニアム・サミットのときのさまざまの集会のひとつ「平和、安全保障及び軍縮テーマ・グループ」の最終報告は、「すべての国が日本国憲法9条に述べられる戦争放棄の原則を自国の憲法において採択する」ことを提案しているのです。 今、学習会で話すときに、大事なのは、こうした憲法9条に対する積極評価が、イラク戦争を契機にさらに高まっていること、押しつけ改憲の攻撃の嵐に直面している憲法は、まさにその時に、もっとも輝かしい光≠世界に放つ状況になっているということだと私は考えています。その意味でも「今、憲法は旬」だ言われることにつよく同感します。こうした一連の動きの根底には、9.11のいわゆる「同時多発テロ」に対して、アフガンやイラクで先制攻撃を仕掛けるようなアメリカの力まかせの、しかも、不正な戦争があります。アメリカの先制攻撃は不正であるとともに、矛盾の解決にまったくならないことが世界的な規模で明らかになったという事実が、憲法9条の輝きをさらにつよいものにしているのです。第2次大戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争をはじめ、数多くの戦争、流血の民族紛争がくりかえされてきました。そして、ついに、現在のイラク戦争にいたって、その不正、その大義のなさ、そして、そこに生じている悲惨に世界の人々は直面しました。口実は様々です。「テロの防止のためだ」「そのための先制攻撃は正当だ」「ならず者国家を制裁し、民主的国家につくりかえるための戦争だ」−アメリカは、そう主張してイラク戦争をはじめました。その結果は、NGOの「ボディカウント」の計算でイラクの死者は1万7000人という惨状です。戦争は泥沼化し、「テロ」の危険はかえって拡散してしまいました。惨憺たる悲劇のなかでアメリカやこれに追随するイギリスや日本の政府のような、ごく少数の勢力を除けば、世界の圧倒的多数の人々、そして多くの政府が「行くべきは平和の道」しかないことをつかんだのです。そのことがすでにあげた様々の宣言、条約、憲章となっているのだと私は思います。そして、こうした流れの先頭に、私たちの輝く憲法9条があることが、地域で言えば、世界的に、さらに時系列で言えば、世界史的に、いま明らかになりつつあるのです。その意味で憲法は、今、もっとも現実的な理想であり、未来を照らす光≠セと言うことを、心をこめて学習会で話すべきだと思うわけです。
結びに入ります。私は、憲法改悪阻止をめぐる攻防の行方が21世紀の日本の未来を決めると思います。この闘いに参加する人を増やし、運動の活力を増して勝利することで、世代をつなぎ21世紀の「もう一つの日本」を担っていく人間の鎖を作ることになると確信するのです。 時代をさかのぼります。私は何も活動の経験がなく、敗戦を中学1年で迎え、その後、あるときまではやや右翼的な傾向さえあった先祖伝来500年の神主のせがれです。何も知らずに弁護士になりました。1959年から60年にかけての三井三池や中小企業の争議の中で、そして、安保闘争の中で、民衆が立ち上がったときに、どれだけ巨大な力を発揮できるかを知りました。あのときに私たちを教えてくれたオルグは、みんな30代か40代でした。20代もいました。それ以後数十年、恐らく90年代の半ばぐらいまで、日本の民衆運動や労働運動の重要な部分を安保で闘い、何かをつかんだ人たちが支えてきたのだと思います。たたかいの諸条件は様々に違います。すでに話しましたが、単純に「安保のようにたたかおう」と言うつもりはまったくありません。しかし、憲法がどうなるのかというのは、誤解をおそれずに言いますが、60年安保闘争の課題の比ではありません。日本の未来を決するというこの戦後史上最大の課題に対して、労働者、国民がどうとりくむかによって、これからの日本を平和で、人間らしく生き、アジアや諸国の人民と共生していく「もう一つの日本」を担う力がつくれるの法則的なことだと私は考えます。 <世代をつなぎ、総結集する運動を> 今、世代の交代という大きな問題があります。自由法曹団も、労働組合もそうだと思います。60年の安保闘争を直接にたたかった多くの人々は、避けがたい時の流れのなかで一線の活動から去っていっています。50代、40代の人々が主力となる運動が必要だし、30代さらには20代の若い力の結集がどうしても必要です。けっして統計的な根拠をもっているわけではありませんが、学習会に参加した実感でも、9条の会の活動をみても、「戦争を知っている世代」は、9条改憲阻止、「戦争をする国」反対で広範に、そして心をこめて立ち上がっているように思います。50代、40代の働き盛りであり、それ故に70年代後半からの反動攻勢、リストラ「合理化」をはじめとする支配層の日々の攻撃の矢面に立ち、活動上、家庭生活上、私の世代が経験したことのない重さに耐えて生きて来られました。こうした世代の人たちの多くも立ち上がり始めています。より若い世代にも、イラク反戦を契機に、希望ある新しい動きが始まっています。彼や彼女らは、イラク反戦、人質救出、バッシング反撃、中国や朝鮮の人びとに対する戦争責任についての賠償請求などで、私のような世代の人間には、考えもつかなかったような創意のある運動をつくり、いまも広げつつあります。こうした若者は、改憲阻止闘争の勝利のためにも、さらには、21世紀のこれからの数十年のたたかいを担う新たな人の力をつくりあげるという点でも、かけがえのない宝≠ナす。 改憲阻止、憲法を生かし、「もう一つの日本」への道を開くたたかいは、多くの困難、様々の危機に直面するでしょうが、反面、私たちが世代を超えて、決意をともにし、たたかい環≠広げる絶好のチャンスです。このチャンスを智恵と力、そして心をあわせてつかみとろうではありませんか。 <思いをのべ、みなさんへのエールを> 自由法曹団の弁護士になってからの46年の、いつのときの、どんなたたかいにもまして、改憲の阻止、そして、憲法の完全実施をと私はいま思っています。「戦争を知っている子供たち」の世代の一人として、このたたかいに寄せる私のささやかな思いを最後に語らせて下さい。 「1ミリも下がらない」 9条の会の発会式のときに、日本の知性と良心を代表する9人の人たちから8人が出席して、それぞれに思いを語ってくれました。その中の澤地久枝さんは、「私は心臓のペースメーカーの手術をして、退院して3日目だけれども、ここに来た。いろんなことはあるけれども、改憲の策動に対しては自分は『1mmも下がらない』」と言われました。 二つのマドリードに思う 心を打たれてこの言葉を聞きながら、私はふっと思い出したことがあります。七十数年前に、スペインの労働者や国民が、民主的な選挙運動の中で自分たちの政権を作ったことがあります。この合法的な政権を暴力で打倒するために、ヒットラーやムッソリーニは王政復活を掲げて叛乱を起こしたファシストであるフランコを助け、最新の兵器を送り、さらには直接に空軍で爆撃するなどして干渉しました。そうやって、結局この政権を流血の中で叩きつぶしたのです。この戦いのときに、ファシストらの攻撃とたたかったスペインの人たちが叫んだ合言葉があります。人々は「ノーパサラン(やつらを通すな)」と叫んで、劣勢の中で、反ファシズムの民主的な合法政権とその首都マドリードの防衛に立った。だが、そのときの歴史的な条件では勝てなかった。マドリードは陥落し、政権は奪われました。この「内戦」での死者は約50万人、フランコ政権樹立後、長期にわたって苛酷な支配がつづきました。 だがその同じマドリードで、04年3月21日、イラク反戦、撤兵を要求して200万人を超えるデモがマドリードの街頭を埋めました。スペイン全土で1,000万のデモと集会が行われたのです。人口比で日本でいうと3,000万人です。そして、アメリカの言うとおりに1,400人の軍隊を出し、テロを招き入れた保守政権をひきつづく選挙で倒し、新しい政権を作りました。そして今も、アメリカに何度も文句を言われ、干渉されても、「自分たちはテロに反対する。テロとはたたかってきた。しかし、大義のない戦争には反対する。加担する兵は一兵も送らない」と言って、頑張っています。私は十数年前に1度マドリードに行ったことがあります。フランコ支援のドイツ空軍の爆撃で2,000人の市民が殺された事件への怒りをこめて描いたピカソのゲルニカの前にも立ちました。マドリードで、2年半にわたってファシスト軍の攻撃を持ちこたえましたが、1939年3月、ついに陥落したマドリード、約65年を経て、同じマドリードは、200万人を大きく越えるデモの中で、平和を実現するスペインの首都としてよみがえっていた……。スペインの人々のたたかいは、私だけではなく、多くの人々に確信を与え、イラク反戦の心をゆり動かしています。その1人、『朝日』のコラムニスト早野透氏(*名前要チェック)は、同紙のコラム欄・「ポリティカにっぽん」(04年3月2日)で、スペイン人民の戦前の反ファシズムのたたかいを想起しながら、次のように書いています。「こんな試練を乗り越えた国民が、ただテロにしっぽを巻いて政権交代に走ったはずはないじゃないか。降りしきる雨の中、200人もの死者を悼んで、『テロノー』のプラカードを掲げてマドリードの広場を埋め尽くした人々を見よ。スペイン全土で1,000万人の『テロとの戦い』がテロを生み出す、不条理な戦争はもうやめようという怒りではなかったか」と。私は、この早野さんの思いに共感します。 65年は長過ぎますが、歴史の時間軸で見れば短い。私は、澤地さんの話を聞きながら、時代は変わっている、歴史の流れは変わっている。しかも、その勢いは質量ともにつよまっている。人間は世界を変えることができる。そのことを確信して、私も「下がらない」人間の1人になろうと考えました。大したことはできないけれども、今の私にもできることとして自分の思っていることを聞いてくださる人がいるならば、どこへでも行って話そうときめ、今夜、みなさんの前で話しているのです……。 <私たちの手できめたい> 自由法曹団は、04年の10月、いまなお全土米軍基地の島・沖縄で、約500人の団員、事務局労働者が集まって総会を開き、全団の総力を挙げて憲法改悪阻止の闘いに立ち上がることを誓いました。その集会に、韓国で軍事政権と闘い投獄されるような目に遭いながら今日の状態を作った、韓国の「民主的な社会をつくる弁護士の会」の代表3人が来てくれました。その代表あいさつで、「北東アジアの未来は北東アジアの民衆がつくる」と語ってくれました。彼らの長い苦難と、払った犠牲、その中でかち取った実績のもとに、誇りたかく、胸を張ってそう語る弁護士の姿に、わたしたちはみな本当に心を打たれました。 アジアの未来をきめることを韓国の法律家だけに独占させておくわけにいかない。まして、この国の未来を韓国の人に任せるわけにきません。アジアや世界の平和への流れは私たちには間違いなく追い風≠セし、私たちを勇気づけるかつてない有利な条件です。こうした流れとの連帯・共同は60年安保闘争のときにも、ベトナム反戦のときにもなかった、かつてない有利な条件です。しかし、主戦場は日本です。ここを変える第1の、そして、最大の主人公は私たちです。だから、歴史の主人公として、主権者として、自分の手でこの国の未来を決めようではありませんか。私たち、できることは数多い。今日の午後の集会でのみんなの話、たとえば長野県での草の根からのいままで考えられなかった過半数署名実現のためのとりくみ、JMIUの自力での100円パンフ作成とこれをもっての職場学習会のとりくみなど、心が躍る活動をたくさんききました。こうした創意ある活動にとりくむ条件は、様々に違っていても、みんなでできることを1つずつやったら、巨大な波が起せるのだと思います。私たちの力は様々にある。真実をつかみ、立ち上がる人間の力はけっして小さなものではない。それは改憲勢力が計算するよりはるかに大きいものだ。こうした1人ひとりの力を、かつてない共同で総結集したら、それは改憲を阻止し、「もう一つの日本」への道を切り開くスーパーパワー≠ノなるにちがいないと私は確信するのです。スーパーパワー≠ェ動き出したときにマスコミがそれをいつまでも無視できるとは思いません。何千万部の新聞を持っていたって、テレビで何ぼ流したって、顔と顔をあわせ、同じ目線で心から本当に話をして、自分と自分の子供や家族のために大義を掲げて闘おうという私たちをマスメディアがいつまでもコントロールできるとは思わないのです。国民が動き出したときに、3党が国民世論に背いていんちき合意が自由にできるでしょうか?そうは簡単に行かない。けっして行かせない。改憲策動には「ノーパラサン」でたたかう−それが私たちみんなの心ではないでしょうか。 私は改憲は阻止できると思います。国民世論を機を失せずにつよめ、広げて、3党に発議をさせない。彼らが万一発議しても、国民投票ではね返す。そのためにお互いに力を尽くそうではありませんか。 みなさんのへのエール 私も、1600余名の自由法曹団も職場、地域、そして私たちの固有な活動の場である弁護士会のなかで語り手として活動します。しかし、巨大な世論をつくるには自由法曹団と団員の力はあまりにも小さいのです。私はありとあらゆるところで真実を語る必要があると考えます。誰が語るのか?その重要な話し手はみなさんです。ぜひ、皆さんが職場で、地域で、そして家庭でも話して下さい。みなさんは、その身近な人々に対して、同じ目線で、誠実に語りかけることの出来る最良の語り部≠ネのです。語りあうやり方は様々でしょう。今日の職場状況、新旧の組合員、非組合の気持ち、感性の違いを直視して、対話を成立させるには多くの創意工夫、そしてねばりづよさが求められるでしょう。リストラ「合理化」の嵐が吹き、長時間過密労働が広がっている職場で、どう話し合っていくか?そこにある様々の困難を思いつつも、私はみなさん、最良の語り部≠ェ仲間と真実を語りあい、要求をともにして、行動されることに心から期待をこめて、共同してたたかう者としてエールを送って、今日の話しを結ぶことにします。長い時間、本当に有難うございました。(拍手) |